堀内正和のユーモア −芸術の社会性について−

 
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 神奈川県立近代美術館葉山館で堀内正和展を見て来た。堀内正和の彫刻は画像等で知ってはいたが、展覧会を見たことは無かった。初期の石膏による頭部などの具象彫刻は良い作品だが何となく硬い感じがした。続く部屋では彫刻が分厚くなってしまうことから開放されたと自身が語っていた鉄の線材で出来た空間的な作品が紹介されていた。突然そこから泉が湧くように作品が次々と生み出されていったように感じた。所謂堀内正和らしい初期の作品では、メビウスの輪のような無限をモチーフにした樹脂と石膏の作品があった。この頃はまだ地面から彫刻が生えてくるような、ボリュームとしての彫刻であった。しかし中期のIKOZON彫刻(覗きの反対読み)では、ボリュームは表面的なもので、観客が作品を見る(覗く)ことで彫刻が成立する仕組みになっている。陰陽のような構造がカタチになっていて、素材は石膏などの実体があるものでも見ているうちにどこまでも終わりの無い感覚に襲われる。カタチが互いに入れ子構造になっている丸と四角など。その同じ部屋には堀内正和の紙の模型彫刻が、ある一区画にたくさん並べられていた。一瞬ブランクーシのアトリエを思い出した。同じ形を違う素材で制作したり、大きさが少しずつ違っていたり、お互いの彫刻が連鎖しあっているような。堀内正和のたくさんの紙の模型彫刻も似た雰囲気があった。現に堀内正和の言葉にも、山のように増えていく模型彫刻がまた次の作品を生み出すきっかけになっていくのだという言葉があった。
 ここまで書いてきて、堀内正和の彫刻にユーモアをどう感じるのかを課題にしながら展覧会を見ようと予定していたことを思い出した。私には表面的なユーモア(ニコニコした記号など)よりも、視覚から引き起こされる無限感覚の方が気になっていた。そしてまるでモデル(模型)のような彫刻たち。さらに彫刻作品の重量が全く感じられないのである。浮遊感とは違う。存在感が無いわけでは無い。実際に展示会場で作品に囲まれていると、在るのに無いような感覚になる。また石膏作品などが経年劣化をしていたが、その彫刻の表面は気にならなかった。狐につままれたような気持ちで、最後の部屋へと入って行った。高い天井のある空間にバランスよく彫刻が置かれていた。私は何故かしばらくその部屋に入る事が出来ないでいた。手前でその空間に発生している緊張感を感じていた。ずっとそうしているわけにもいかないので、やっと入った私は今までのユーモアとは違う空気がここにあると思った。大型の斜め円錐に円筒のカタチを繰り抜いた作品があった。大きい作品なので繰り抜かれた円筒部分の空間に頭を入れてみた。何故かゾッとした。恐怖感だった。私は丁寧に繰り抜かれた虚の空間を眺めた。円錐を円筒が貫く際に出来る曲線は、実際に目の前にあるにも関らず何故かカタチとして認識出来ない。線は円錐の表面に出来た言わば切り傷のようなものだ。しかし、切られた痕跡は感じられない。中期の作品から登場するカタチの中にある穴のカタチ。外見がそもそも観念的なカタチであり、そこに穴を空けることは、思考の中に穴が空くようなものか?大型の円錐に空いた円筒を覗き込んだ時の恐怖が蘇って来た。
 そう言えば、途中の部屋で堀内正和がプラトンの言うように現実の世界はイデアの世界が鏡に映った世界ならば、現実の世界を鏡に映せば逆にイデアの世界が見える、、、と言っていたのを思い出した。私はそれこそ穴から出るような気持ちで会場を出た。その日は車で葉山まで来たのだが、帰り道しばらく道路を走っていても現実が上手く掴めず、運転が不安で仕方なかった。私は、常々戦争やその他人間の負の部分はそもそも人間の観念が作り出したものであるし、その他の現実も作られたものだと感じていたが、まさかイデアと現実がひっくり返ったことで運転に支障が出るとは思わなかった。これは、堀内正和が仕掛けたユーモアなのか。

「アジアにめざめたら」展を見た。−芸術の社会性についてー

 東京国立近代美術館で「アジアにめざめたら」展を見た。1960−1990年代にかけて行われたアジアの現代美術を振り返るという企画展。現在、西欧中心主義の美術史に対する懐疑があり様々な価値の多様化に伴い、西欧以外の文化からの社会問題への問い掛けなどの動きが活発化している。美術館もアーカイブとして美術品を管理保存するだけでなく、現在進行形で観客に社会問題を主体的に問いかける時代である。こうした中、アジアという地域がどう西欧に向き合ったかという歴史の振り返りでもある。
 最初に印象的だったのは、西欧美術に対する嫌悪や怒りである。キャンバスを燃やしたりし、既存の制度を消滅させてみる。そうすることで作品の背後にある制度を他者としてのアジアが炙り出す。展覧会には西欧人の観客も多く訪れていたが、そうした他者の視線を求めて西欧の文化を逆照射したいのだろうと想像した。物を燃やすという行為は原始的だが、政治的であり、非常にメッセージとして強い。美術自体がとても政治的なモノであるので逆に燃やすことで美術にある政治性が露わになる。こうしたコンセプチュアル(何が美術なのかという問い)な作品は価値が多様化する現代において顕著であり、美術の本来の無名性も同時に表現される。誰が作ったかが一つの価値になり、権威になることへの問い。その価値がどの文化を背景にしているのか、も同様だ。
 また70年代を境に作品が作られる状況やプロセスを作品にする流れもこの時代のアジアの現代美術に大きな影響を与えた。ここに作品の場所性というものが出現する。それは、それぞれの文化の共同体が持つ固有の時間感覚をも表わしていく。アジアに共通する感覚として、結果としての完成作品よりもそこに至るまでのプロセスを大切にすることがあるのではないだろうか。それは、出来上がる作品の周りの状況も作品として巻き込んでしまう方法論から、アジアの文化圏に住む人々の営みさえ見えて来そうだ。ある作品は、ギャラリーにテーブルを何台か置き、そこを期間限定の酒場にしようという試み。写真を見る限りでは、作家と思わしき人々が議論を交わしているような様子が写真として残されている。そこから彼らが対象物としての作品ではないものを何とか模索している様子が伺えた。さらに同時代美術に美術的観念を物質に還元するという動きもあった。これは、近代的理性を物質に還元することにより個々の作家性ではなく、美術作品の普遍性を探る試みだった。これに対し、アジア文化は別の顔を見せた。それは“物質自体”から美術が成立する方法を選ぶと言うものだった。それは、アジアの自然観の現れである人間と自然を等しく捉える考えが露わになる結果に繋がった。
 展示テーマのおかげで社会的な問題を直接具象絵画などで訴えるリアリズム絵画も多く見受けられた。これらの手法は広く西欧でも見られるが、改めて芸術とは個人を離れて人々の生活(ここでは西欧と向きあうアジアとして、または集合無意識)を映し出せる可能性があると再認識した。ここまで書いてきて、この展覧会の空間にいて感じる奇妙な感覚は何かを考えてみたい。それは普段の日本に暮らす我々が無意識に西欧の方を向きながら、一方で内面は内側の共同体に向かって生活を営んでいる事実が目から鱗が落ちるように実感されるのである。高尚な美術を美術館に見に行くのではなく、正に生きている我々が現実社会に向き合うための装置として機能しているように思われた。あの独特の内側と外側がひっくり返ったような感覚。美術館の外側へ出た私は、ここは正にアジアなのだと思った。そしてアジアに流れている時間もここにあると。

快慶・定慶それぞれのリアリズム −芸術の社会性についてー



 東京国立博物館に快慶・定慶のみほとけ展を見に行った。仏像彫刻にはほとんど知識が無かったが、快慶の鬼気迫る造形をこの目で見たかったのが動機だった。しかし、結果は自分の期待を大きく上回る物であった。
 先ず、快慶の釈迦十大弟子の仏像があった。舎利弗などその圧倒的なリアリズムに息を呑んだ。また自分を戸惑わせたのはこのリアリズムがどこから来るのかという疑問だった。確かに日本の一般的な仏像彫刻に比べて人物表現が細かい印象がある。厳しい修行を感じさせる肋骨の表現や、それぞれの弟子の生き方を表わした顔の表現。しかし一番私を捉えたのはその実在感だった。そして何故か仏像自体はあれほど細かい表現がされているにも関らず、ある一定の距離を持って鑑賞するとさらにリアリティが出て来るように感じた。私は思わずスイスの彫刻家ジャコメッティを頭に思い浮かべた。モデルに対する距離に拘ったジャコメッティ。快慶の彫刻はジャコメッティ同様その距離感が大切な要素だと思われた。ジャコメッティの彫刻は彫刻家とモデルが向き合うその直線的な距離の中に浮かび上がる。実際作品を見る観客も直線的に向き合う。だが快慶の場合、彫刻の周りをぐるっと廻りたくなる欲望に駆られるのである。変な喩えかもしれないがアメリカ映画のマトリックスを思い出させる。被写体が静止していて視点だけが360度回転するような感覚。その人(十大弟子)が生きながら時間だけが止まってしまったような。
 また私は快慶のそれぞれの仏像の眼差しの表現を覗いてみた。だがあれほど実在としてのリアリテイを感じさせる造形ではあるが、目はただのガラス玉に見えた。自分の目が可笑しいのかと思い、何度も確認した。しかし私の目にはガラス玉に映った。目の表情そのものは表現されているのにだ。私は勝手に、“外側”から見た客観的実在としての人間(実際に釈迦の弟子で実在したと言われている)なのだと想像して納得した。
 続いて定慶の六観音像を見た。私はすぐに快慶と比べたくて眼差しの表現の確認をした。確認というよりも凝視ではあったが。みごとに全ての観音像が違った表現がなされていた。私は不思議なマジックにでも掛かったようにその眼差しの意味するところを目に焼き付けようと必死になっていた。それぞれの観音像を代わる代わる見ながら眼差しが何処を見ているのか注視した。聖観音菩薩像はすぐ目の前を直視している感覚があった。私はこれを現実そのものを直視しているように感じた。千手観音菩薩像の薄く開けている目は何も見ていないように感じた。どこを見るわけでもない眼差し。馬頭観音菩薩像は怒りに我を忘れた眼差しを感じた。十一面観音菩薩像はひたすらに内面を見続ける眼差しを感じた。准胝観音菩薩像はどこまでも遠くを見続ける眼差しであった。最後の如意輪観音菩薩像はひたすらに思考する眼差しに私には見えた。
 快慶と定慶の木彫の違いは何を意味するのだろうか。ここから少し飛躍した言い方になることを断っておきたい。私には定慶の木彫は「絵画的」なのではないかと思った。それは上述した木彫の眼差しの内的表現から発想した。人々の信仰の対象としての内面性が理由だ。もちろんここで絵画の定義自体が“内面性と眼差し”という二つの概念だけであることを断定したいわけでは勿論ない。また、快慶の木彫は「彫刻的」であると思われる。その根拠として上述した外的実在としての在り方がある。他者は「この私」にとってある距離を持って世界にそれぞれ存在している。「この私」から見れば他者は僅かながら小さく見える(身長ではなく)のかもしれない。こうした快慶と定慶の表現の違いから仏教的な我々衆上の在り方を考えてみるのも良いかもしれない。

縄文から古墳へ −芸術の社会性について−


 
 東京国立博物館平成館考古展示室を訪ねた。入り口では埴輪が迎えてくれた。とても美しい像だった。一見素朴な造形であるが、その円筒型の人体は中心線が僅かにずれていて動きがあり、その動きにつられて帽子の曲線、衣服の曲線などが相互に動き出す。不思議な中立性を醸し出していた。入り口を入ると、縄文土器が表れた。非常に緊張感のある造形に思われた。説明には、土器の出現により食物に火を通すことが出来て衛生的に向上したと書いてあった。縄文人の食生活と火の関係は特別なものだったのかもしれない。火焔土器と呼ばれる火をかたどったデザインがあるが、生活に欠くことの出来ない火を神聖化したのだろうか。また縄文の名の通り、縄目などが施された文様を見ていると、一見繰り返されているただの模様のように見える文様が物語のように感じられた。後で調べたら、豊穣、安産、男女愛などを祈る意味があったのではないかと考えられているようだ。また特徴として器という道具と文様が一体となっていて、縄文土器が何か特別な存在として縄文人の生活の中にあったのではないかと想像した。
 隣には弥生時代の器があった。こちらは均整の取れたデザインが特徴である。壷や、高坏(たかつき)、鉢など用途別に器が作られている。縄文土器と違い器を使用する目的の方が重要である。これらは渡来の文化の影響であるが、縄文時代の文様による祈りの器から、生活をコントロールしていった弥生人の営みが垣間見られて興味深い。壷は、何かを蓄える意味が感じられて、農耕文化である人間の「所有」文化の始まりを表わしているとも言える。比べて縄文時代は自然界と地続きであり、それが土器の口の部分の拡がりに表れているように思えた。
 器とは大切なもの(食物、遺体)を入れる空間であり、器のカタチがそこで生活している人間の世界観を表わしていると考えることが出来る。そのように考えながら進んでいくと、古墳時代の鏡や装身具が現れた。ムラからクニが生まれて、人々を統治するために政治が行われ始めた。渡来(中国)の模様の入った鏡などには、そうした統治者の思いが感じられた。銅鏡と呼ばれる金属を磨いた鏡は神道の中では太陽を写すものとして使われた。これも心の器と考えると面白い。古墳時代の埴輪は葬礼のために当時の生活を模した人形や、家、馬などが素焼きで表現されている。興味深かったのは、所謂埴輪人形のポッカリ空いた目と、埴輪の家の窓が同じ雰囲気を持っていることだった。これはどういうことだろうか。何故目が繰り抜いた穴として表現されているのか。何故描かなかったのか。埴輪全体が“死者”あるいは“死”をイメージしているとすると、あの世とこの世を繋いでいる窓、穴、境界のようなものなのだろうか。だとすれば、家の窓、人形の目、馬の目、馬のお尻の穴など、穴と言うものが“生と死”“あの世とこの世”を繋ぐ機能を持っていると信じられていたのかもしれない。また、埴輪の人形も、家も、馬も同じようなスケール感で作られているのも不思議に感じられた。何かを特別に神聖化して祭っている感覚ではない。全てが友達のような平行的な感覚を覚えた。ある安楽感を表わしているのだろうか。現代の日本というイメージから離れて直に古代の人々の思いを想像することは人間の普遍性に繋がる感覚を探していくことであるような気がした。

ゴードン・マッタ=クラーク ー芸術の社会性についてー

   

 
 ゴードン・マッタ=クラーク展に行って来た。場所は東京国立近代美術館。事前の知識として、「スプリッティング」という解体予定の住宅を電動ノコギリなどで真っ二つにスプリット(割る)する作品が有名で、70年代のニューヨークを中心に活躍した作家で34歳という若さで亡くなったことは知っていた。建築科を出ながら、建物を建てずに建築に関るというちょっとパラドキシカルな制作態度が興味深かった。展覧会の印象としては、作品の断片性が目立った。一つ一つの作品がピースのようになっていて、後で全てを組み合わせると完成するようなイメージを感じた。
 初期の作品として「ウィンドウブロウアウト」(1964年)がある。これは、ある都市計画にマッタ=クラークが参加した時の作品。都市計画の影にアフリカ系やヒスパニック系の住民が締め出される矛盾を感じたマッタ=クラークは展示会場の窓ガラスを真夜中にモデルガンで割ってしまう。そしてサウスブロンクスの窓ガラスが割られた建物の写真と共に展示した(後に展示会場の窓ガラスは修復されてしまう)。私はこれを見て、建築科を出たマッタ=クラークならではのアプローチだなと感じた。建築とはあらゆる社会制度の中に組み込まれたとても政治的な制作行為である。そこに、「割る」という破壊行為を通じて建築を表現していくという、自己否定を通じて社会と繋がっていくマッタ=クラークの制作態度は10年という短い制作期間であったが、一貫している。
 次に「スプリッティング」(1967年)の作品を見た。これも都市計画と関係があり、郊外の住宅の再開発に取り残された住宅を真っ二つに電動ノコギリで割った作品。真っ二つになった住宅の写真と、当時の映像が展示会場で見られた。マッタ=クラークの作品の特徴として、マッタ=クラークが手で割った(破壊)という行為がこちらの身体に伝わって来るのである。その場に行かなければこの作品を味わう事は出来ないだろうなと感じながらも。そこには、現代の都市生活が“経済的な理由”で日常的に破壊行為が行われていることを無意識の中で我々が感じているからではないだろうか。
 こうした、プレゼンテーション的な制作態度はともすると制作理由がはっきりしすぎるためにデザイン的な印象になりやすい。しかし、マッタ=クラークは美術としても成り立たせている。それは、「スプリッティング」の作品とともに制作した、「4つの角」という分割した住宅の屋根4つの作品がある。これは、当時ギャラリーに展示された。私はこれを見て、見上げるはずの屋根が眼下にある驚きと共にそこにスケールが転覆するある仕掛けを感じた。そして、直観的に天地を繋げようとしたマッタ=クラークの意思を見た。天地の発想は「スプリッティング」の割れた部分から太陽の光が地面に差す映像が残っていることからも分かる。マッタ=クラークの個人と社会を繋ぐ回路は現行の美術制度から外れている。
 私はマッタ=クラークの、制作という側面から少し切り込んでみたい。彼の作品にある都市計画をバックグラウンドとしたものではない部分。晩年の作品に解体予定のビルを切り刻む作品がある。「オフィス・バロック」(1977年)という作品で、古いビルをカットアウトする構想をしていたマッタ=クラークはスケッチを重ねながらビルの持ち主と交渉をしていた。しかし、中々思うように進まずにいた。業を煮やしたマッタ=クラークは確認を取らずに制作を始めてしまった。外観はいじらずに建物内部だけをカットアウトすれば良いと考え、数ヶ月を要して作品を完成させた。様々な写真と、映像に痕跡は残されており、自分もそれを見た。ビルの床を縦に少しずつずらしながら穴を開けていく作品。それ以外にもいたるところに空間を分割する仕掛けがあり、迷宮のようだ。映像の中で彼は「みんなは自分に一目瞭然の作品を求めるけれど、全体を見通せない作品が良いんだけどね」「同心円と離心円の関係」など宇宙的なスケールで、内部空間と外部空間が交差する構造を観客が体験することを考えていたように思えた。映像の中で、懸命に電動ノコギリで建物を切っていた彼が印象的だった。

ターナーと言えば風景画である。−芸術の社会性についてー

 ターナーと言えば風景画である。風景と言うのは皆で見ることが出来る客観的なものでもある。その客観的なるモノと画家はどう向き合ったのか気になった。新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館へと足を向けた。先ず会場入り口で、地誌的風景画(Topography)という言葉に出会った。これは、その絵画が実際にどこの場所か特定出来ることに意味のある風景絵画作品を指す。私は逆にこの言葉に新鮮味を感じた。ターナー以降の印象派の風景画は、どこであるということよりも画家の立っている場所から何が見えたか(感じたか)が画題であるからだ。そうした画家の身体を意識した近現代の画家の、一昔前の話である。しかし、だからか、全く違うものをターナーの風景画から感じた。それは、画家ターナーの身体が見当たらないのである。近現代の風景画に顕著なのは、画家がキャンバスの手前にいるという前提をどう考えるかであった。私がターナーの風景画の前に立った時、風景画と私の間にポッカリと間が空いているのである。それは、奇妙な感覚だった。それに加えて、ある一定の視点(角度)から描かれている地面の感覚がまた変なのである。私はこれを“グラウンド感”と呼んでみた。近景と遠景が記されてはいるものの、向こう側に上手く抜けていない。例えば、地面があり、岩や川などが手前にあり、樹木があり、上方に空が見えているような場合、上方からの視点で描かれている場合通常視線が向こう側へ抜けていくはずである。ターナーの場合、奥の景色は認識できるが空間が上手くパースぺクティブに沿って誘われないのである。風景画の醍醐味の一つとして奥へ向かう空間への一種の現実逃避が見当たらない。
 展示は次に海洋画へと変化した。晩年の波と光を描いた作品が有名だが、もう少し具象性の高い、帆を張った船が波に揺られている絵画作品が飾られていた。私はそこで波を注視した。執拗に描いている。先ほどまで見えなかったターナーの身体をここで感じた気がした。波の習作という小さな、水彩とグワッシュで描いた作品が良かった。とても表現的なのである。海と空という獏とした習作も面白かった。ここには何かあるなと感じた。私は、波の向こうに見える水平線をジッと見た。しっかりした実感が感じられる。すると先ほどの安定しているはずの、地面を含んだオーソドックスな風景画の不安定さが逆に気になり戻ってみた。すると、画面が波打っているように感じられたのだ。ターナーの画家としての身体は、どこか不安定な波打っているような感覚として自らを捉えていたのだろうか。
 また「キリスト教の黎明(エジプトへの逃避)」と題された作品は、左右に分かれた景色に対して、空と川が縦に配置された垂直性が高い作品がある。淡い配色が多いターナーの作品の中で空の鮮やかな青に妙な感覚を憶えた。さらに、「サン・ゴタール山の峠、悪魔の橋の中央からの眺め、スイス」と題された渓谷を上から眺める作品は足元を掬われるような感覚と渓谷の垂直性がせめぎあっていた。いずれにしても、画家の身体、観客の身体が一旦保留されるような一貫した感覚(足元の不安定さ)が風景画という一見安定した構造の中に含まれていることに改めて驚いた。そういえばと言うか、ターナーのトレードマークである水彩は、流動性の高い絵具であり、まるで彼の芸術のようである。

ルドンと怖さ ー芸術の社会性についてー

 

 
 画家のオディロン・ルドンと言えば、晩年のパステルを使った鮮やかな色彩、花や蝶のモチーフ、一つ目の巨人、目を瞑る人物画、怪しいモノクロの版画など。それらが醸し出すファンタジックな印象の奥を確かめるべく、有楽町にある三菱第一号美術館に向かった。会場に入って先ず目にしたものは樹木を描いたモノクロ版画作品だった。いきなり画家ルドンに出会えた感じがした。その後の樹木をモチーフにした絵画作品はルドンの本質を私に感覚的に教えてくれた気がした。目の前の木々を風景として捉えているのではない何か、“ある怖さ”を含んだもの。油彩画は鮮やかな色彩の斑点を感じた。そこには遠近法的な奥に行く空間は無く、色彩が色彩のまま、物質感を帯びて画面を飛び越えて私に届いた。反射的に、晩年のパステル画と結び付いた。パステルの物質感と、油彩画の筆触がキャンバスにちょこんと置かれたように見えたことが頭の中で繋がった。
 次の版画のコーナーへと進んだ。そこで、植物学者のクラヴォーに影響された経緯が説明されていた。クラヴォーの目に見えない微生物などの小さな生命への探求に、ルドンは傾倒して行ったようだ。そのころ作られた版画には、花の芯が顔になっている植物人間や、一つ目の怪物の絵などが白黒の明暗の中で怪しく光っていた。それは、目に見えない何かをルドンが見ようとしていたからだろう。私は先ほどの鮮やかな油彩画との感覚の違いを考えていた。良く見ていくと油彩画で起こっていた同時に生起する物質感を伴った色彩の生起が、モノクロ版画では形を変えて明暗によって白と黒の物質感が生起していた。そして、よりダークなファンタジーになり、物語性が増していく。また、蝶と花が描かれている作品があったが、蝶が花に擬態する姿から発想を得たことから、わざと蝶なのか花なのか判別しづらい絵をルドンは描いている。ルドンは樹木と人間、動物と植物などの境が無い世界を創造しようとしていたのかもしれない。
 途中の展示で、壁面装飾用に描かれた大きな油彩画が並んでいたのを見た。そこで気付いたのだが、ルドンの絵画には表面が揺らいでいるような感覚があり、一種の浮遊感がある。また、画面の中心のようなものが感じられない。モチーフは具体的に描かれているが、どこかフワッとしている。モチーフは花や人物が描かれているが、全体がはっきりしない感覚になる。ここまで見て来て、ルドンがわざわざ“怖さ”を絵に持ち込む理由を考えながら、あることが頭に浮かんだ。それは先日見た熊谷守一の、境の無い生死を越えようとしたノッペリした世界だった。熊谷守一も色彩の明暗と彩度(鮮やかさ)を構成して視覚的に境が無い世界を描こうとしていた。そこには生命の輝きというよりは境の無い薄気味悪い世界があるように私には感じられた。その境が無い世界が一種の怖さを呼び寄せているのか。ルドンのファンタジーの裏にはそうした鮮やかだが薄気味悪い世界がある。人間は怖いもの見たさがあるが、それは、現実を覆っている表面を剥いだ奥の暗くて怖い世界を本能的に知っているからだろうか。またこうも思う。我々が生きている“現代”の社会を考えた時、ボーダーレスな社会は保守的な価値観からは恐怖を感じるのかもしれないと。
 我々は今多様性の時代を迎えている。多様性を広げていけば無際限な世界がそこにある。だが、その多様性を許さない区切られた世界が現代の我々が住んでいる世界だ。さらに多様性を恐怖に思い、区切られた世界に安心を求める価値観が台頭し始めている。私は、ルドンの作品の色彩と物語の不思議さに吸い寄せられていたが、そこには何か大切な“怖さ”があるのではないだろうか。