トーマス・ルフ展を見て

 画像という概念はいつどこから始まったのだろうか。11月13日まで、国立近代美術館においてトーマス・ルフ展を開催している。写真が持っているメディアとしての客観性を問う展覧会。展覧会場で最初に出会うのが、友人をモチーフにして撮った写真を広告写真の技術で巨大なサイズに引き伸ばした作品群。そこで直面するのはそれが誰であるのかという疑問より、人間の写真が大きな像として作品を見る人の前に立ちはだかっている事実だ。これは、逆説的に芸能人やモデルなどの記号化された人間ならどんなに大きな写真でも、それがイメージである限り安心して見られるのである。
 トーマス・ルフは写真という概念が持つ客観性を利用しながら、写真が持つ色々な属性を炙り出す。Hausというシリーズでは、近代的な建築物を特徴的なアングルではなく、正面的であったり、パースの効いた説明的な写真を撮る。説明的であればあるほど、建築物はそのものであり続け、建築物のイメージ性がこちらに伝わって来てしまう。また、数式から導き出された三次曲線をキャンバスにプリントすることで抽象絵画のように見立てて、数学的な客観性にある神秘性を「絵画」という人間的な自我が支配的な制度と対立させる。
 そして写真が「写真それ自身」である前に情報としての材料であるのが、報道写真である。今でこそデジタルであるので写真データを印刷するだけで良いのだが、以前は現像した写真を網目の印刷技術によって新聞や雑誌で情報化していった。モノ(印画紙)としての写真(裏に記事としての文字が書かれている)が情報化されていく過程。ルフはpressというシリーズで、報道写真の情報性を印画紙の表裏を同時に印刷することでそれを露わにした。
 こうした写真の画像性や情報性(属性)は昨今では「9・11」の事件の画像が世界にインターネットを通じて拡散されたことで、雑誌や新聞より広範な世界で事実のように扱われて来た。現に、離れた場所からルフによるjpegと題された解像度の低いドットのような写真作品は、現代のネット社会の多くが情報のやり取りに終始してしまっていることに似ているとも言えなくない。
 ルフの作品におけるトリッキーな客観性は何に根差しているのだろうか。まず、写真が発明された当初から記憶の役割をしていたこと。この記憶は個人の記憶から社会的な記憶まで広範なものだ。この記憶は同時に他者への情報でもある。情報の定義はAがAとして伝わらなければ情報としての意味がない。以前、池袋にあるオリエント美術館において、文字はその起源において情報を運ぶモノであったという、文字の歴史を追った展覧会があって新鮮な驚きがあった。離れた場所と時間へ情報を運ぶ。この文字と写真にはある客観性に起因した共通の機能がある。
 我々は写真特有の情報性(同一性)を根拠にして写真と言う媒体に近づく。ここで、私はルフの展覧会に触れながらある感覚に悩まされていた。それは、上記した説明的なある種社会的な文脈の中でのルフの作品に内在している、写真という媒体の裏にある不確実性を感じてしまうからである。その不確実性の演出として作品を見に来たお客さんにカメラでの撮影を許可していたことだ。当然作品自体は写真における画像性の問題に言及しているため、二重に画像化されてより複雑な様相を呈してくる。さらに私を困惑させたのはこのようなコンセプチュアルなルフの分かり易い戦略の裏に隠された写真の絵画性である。
 私はこの文章を書きながら、ミュージアムショップにあったルフの写真をプリントしたバッグを想起した。それはアンディ・ウォホールによる様々な自身の作品の複製と酷似している。ミニマリスティックに反復した社会的なイメージは自律し、実在し始める。ルフの矩形を意識した構図の、天体写真を絵画化したような作品や、他の様々なありふれた情報(室内シリーズのような)の写真作品は実体としての同一性を写真内部に孕んでいる。通常写真は伝えたい図としての情報と映らなくても良かった余剰としての地で構成されている。だから我々は安心して目の前の世界から必要な情報だけを伝えている写真を見ることが出来る。しかし、ルフの写真内部にある絵画性は「それがそれである」という同一律を、絵画という概念を利用して我々に現前させるのである。
 私はこのルフの仕掛けたトリックに無意識に引っかかり、取り留めない不安を抱えながら足早に会場を後にしたのは書いておこう。