山田和夫の作品について。(芸術の社会性)

 私も作家として参加した、千葉県鴨川市江見海岸にあるEmiスタジオにて行われたグループ展「不良 思考する家」において山田和夫作品に遭遇した。山田から今回の作品のアイデアは事前に聞いてはいた。山田は良く海鳴りの話をしていた。山田のスタジオ一階からは海そのものは見えない。海とスタジオの間には竹林があり、只々ゴーっという音が通奏低音として一日中響いている。
 山田は絵画を仕事としている。しかし今回の新作は描かれる絵画ではない。私が最初に山田の仕事に触れたのは藤沢のギャラリーヒラワタにおけるパフォーマンスであった。そこで印象的だったのは「耳のドローイング」とでも呼びたくなる作品だった。そのドローイングが始まる前に山田は倉重光則の黄色いスチールの作品を指でスーッと撫でる仕草をした。私は直観的に彼は画家だなと感じた。画家は世界をいかに触るかが仕事だと私は普段考えている。それを確認した思いだった。山田は続けて目を閉じた。外側の世界を触れる山田が観客と視線を共有していた場面から自己の内面に移った瞬間だった。目を閉じながら耳を触り、もう片方の手で展示空間の壁に耳のドローイングを始めた。これが私の山田和夫作品に最初に触れた経験だった。
 江見海岸での作品は、在るはずの海が見えず音だけが聞こえる状況に作品が設置されている。山田は私の作品の感想を聞きながら、他の人であればまた違う感想が聞けるかも知れないと言っていた。山田の作品の状況を説明すると、スタジオのある敷地から単管パイプに支えられたコンパネ板が桟橋状に竹林に向かって伸びている。観客はそこを歩いて突端まで辿り着く。観客はそこで作品を“体験する”。“体験する”しかないにも関らず見えないはずの絵画を見てしまう。より正確に言えば“感じつつ見る”のである。「感じる」とは人の内側で起こる個人的な現象である。それに比べて「見る」とはあるイメージを重ねる可能性を指す。イメージとは世界を咀嚼し共有する概念である。
 ここで、私の個人的な体験も加えておこう。私は桟橋の突端に立ちつつ、前方を見た。そこには目の高さくらい(身長によって違うが)に竹林の先端の水平線が空の色とコントラストを見せていた。そこに絵画を見た。私は一瞬身体が浮いたように感じた。それは、絵画を見る経験が通常床に立って見るからかとその時は思った。フッと桟橋の板と靴底の間に空間が出来た。怖い感じは無かった。どのような絵画を見たのかという印象とは違ったものを感じた。その個人的な体験自体が作品なのだと直観した。
 私は今回この文を書くにあたって、以前から考えていた絵画の社会性について触れられるかもしれないと期待した。山田の絵画作品においての社会性はと問われると、そこには「原社会」とでも呼べるような状況がある。なぜなら、人間は一人で生きることは難しい。一人とは自分が見たことを誰とも共有出来ない状況を指す。これでは何かを確認する事も出来ず、ただ死を待つばかりである。山田の絵画作品にはそうした、人の外側にある事象を個人的に内面化する体験をすることで、社会を形成する個を呼び覚ます装置になる可能性を秘めている。それは現代社会において、価値化(誰かの目を通した)された情報の中で蠢く我々現代人にとって残された一つの未来なのかもしれないと。
 山田の絵画作品に限らず、「絵画」とは感じる事の出来る虚構としての平面が外界に存在する事で成り立っている。さらに同一性(アイデンティティ)が自覚される時、人の内側にある内面と外側にある事象が重なる時「絵画」が表れる。ここに先ほど言った「原社会」が生まれる。
昨今グローバル社会の裏で、肥大した自我による自閉した社会が至るところで顔を覗かせている。幻想としての“人類”は担保されたままで、“他者へ向かって行く”はずの自己は他者を排斥することで虚の自己が増殖されていく。グローバルとローカルの対立が現在違った方向へと世界を導きつつある。山田和夫の絵画作品は元来ローカルで在るはずの個の身体を呼び覚まし、自覚し新しい社会(価値)を作る予言に満ちている。