リンキンパークの音楽 ”芸術の社会性について”

 たまたまラジオを聴いていたら、リンキンパークというアメリカのロックバンドの曲が流れていた。私はこのバンドの知識が全くなかったし、この時もさして気に留めなかった。しかし、時間が空いてスマホで音楽を検索している時リンキンパークのことが思い出されて聴いてみた。Heavyという曲だった。メロディーはポップな感じで、ジャスティン・ビーバーのSorryのような出だし。聴いている内になぜか引き込まれていった。ポップな曲調で最近流行のフューチャリング手法で広がりのある印象だった。とても耳に残ったので、同じ曲で違う動画を繰り返し聴いていた。その内に歌詞の内容が耳に残るようになり、何を歌っているのか分かるようになった。印象的なのは「I’m holding on,Why is everything so heavy」と言う箇所。訳せば、「何とか持ちこたえている。なぜこんなに全てが自分にのしかかって来るんだ」。さらに曲調はポップなのに歌声がとても切実に迫ってくる。そして後から分かったのはボーカルのチェスター・ベニントンが最近自殺していたことだった。
 色々気になり出して他のリンキンパークの曲を聴き始めた。ロックバンドではあるが、様々な手法を試みている。ヒップホップな歌い方をしながら、急にヘビメタのような重いギターサウンドが入って来る。かと思えば、ポップな曲調になり、歌声もポップな印象になる。その後また重いギターサウンドに戻ったり。この目まぐるしい曲の展開を引っ張っているのは、“ある重さ”だ。
 私は、この今まで感じたことの無い感覚を確かめたくて何度も何度もリンキンパークの曲を聴いてみた。頭に浮かんだのは、自分の知っているロックは“これがロックだ”という確信のようなものがあり、演奏している方も聴いている方もそこを共有しようとしている。あるいはして来た。というものだ。しかし、リンキンパークの音楽はロックのオリジナリティを先に感じるのではなく、現代の社会状況にある様々なアイデンティティーを示すための音楽スタイルを並べている印象が強い。特にボーカルのチェスター・ベニントンの歌声がわざとポップな声の出し方をしながら、途中でそれがヘビメタ的に叫び声になったり、ヒップホップな訴える声に変わったりするスタイルだ。これはインターネット時代手軽に様々な音楽ジャンルが聴けることや、且つそのことを様々な人と共有している状況を自分に想起させた。よくあるような、様々な音楽スタイルをミックスしているのとは全く違う。
 試しに自分が好きなロックの曲を聴きながら何が違うのかを感じてみた。そこにあったのは、それぞれの音のカッコよさであり、社会に対して斜に構えるポーズであった。この社会に対して斜に構えるところが若者にとっての砦であり、砦であった。60年代から70年代にかけて、社会が大きく変わり若者の実在がクローズアップされた。今までは、“大人”とう概念しか社会に無かった中で、ロックが若者の存在と若者でしか出来ない社会へのアプローチを知らしめた。そうした大人の社会に対するアンチテーゼがロックの存在意義であった。しかし、インターネット社会がもたらしたものは情報と人が無尽蔵に繋がる事により様々な垣根が取り払われた結果、自我が肥大して大人と若者の区別が不明瞭になっていった。気が付けば、社会という壁にぶつかることで自己を主張していたものが、ぶつかるのは自分だけになってしまったように感じる。
 そうした鬱屈した印象をリンキンパークの音楽から私は受け取った。まだ私はリンキンパークの音楽を消化出来ていない。これから何曲も聴いてみたい。少しだけ、聴いた後に残る感覚が掴めたのは“ある大きさ”の感覚だった。何か大きなものと、ひたすら重いもの。まさにHeavyの曲のようだ。