ターナーと言えば風景画である。−芸術の社会性についてー

 ターナーと言えば風景画である。風景と言うのは皆で見ることが出来る客観的なものでもある。その客観的なるモノと画家はどう向き合ったのか気になった。新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館へと足を向けた。先ず会場入り口で、地誌的風景画(Topography)という言葉に出会った。これは、その絵画が実際にどこの場所か特定出来ることに意味のある風景絵画作品を指す。私は逆にこの言葉に新鮮味を感じた。ターナー以降の印象派の風景画は、どこであるということよりも画家の立っている場所から何が見えたか(感じたか)が画題であるからだ。そうした画家の身体を意識した近現代の画家の、一昔前の話である。しかし、だからか、全く違うものをターナーの風景画から感じた。それは、画家ターナーの身体が見当たらないのである。近現代の風景画に顕著なのは、画家がキャンバスの手前にいるという前提をどう考えるかであった。私がターナーの風景画の前に立った時、風景画と私の間にポッカリと間が空いているのである。それは、奇妙な感覚だった。それに加えて、ある一定の視点(角度)から描かれている地面の感覚がまた変なのである。私はこれを“グラウンド感”と呼んでみた。近景と遠景が記されてはいるものの、向こう側に上手く抜けていない。例えば、地面があり、岩や川などが手前にあり、樹木があり、上方に空が見えているような場合、上方からの視点で描かれている場合通常視線が向こう側へ抜けていくはずである。ターナーの場合、奥の景色は認識できるが空間が上手くパースぺクティブに沿って誘われないのである。風景画の醍醐味の一つとして奥へ向かう空間への一種の現実逃避が見当たらない。
 展示は次に海洋画へと変化した。晩年の波と光を描いた作品が有名だが、もう少し具象性の高い、帆を張った船が波に揺られている絵画作品が飾られていた。私はそこで波を注視した。執拗に描いている。先ほどまで見えなかったターナーの身体をここで感じた気がした。波の習作という小さな、水彩とグワッシュで描いた作品が良かった。とても表現的なのである。海と空という獏とした習作も面白かった。ここには何かあるなと感じた。私は、波の向こうに見える水平線をジッと見た。しっかりした実感が感じられる。すると先ほどの安定しているはずの、地面を含んだオーソドックスな風景画の不安定さが逆に気になり戻ってみた。すると、画面が波打っているように感じられたのだ。ターナーの画家としての身体は、どこか不安定な波打っているような感覚として自らを捉えていたのだろうか。
 また「キリスト教の黎明(エジプトへの逃避)」と題された作品は、左右に分かれた景色に対して、空と川が縦に配置された垂直性が高い作品がある。淡い配色が多いターナーの作品の中で空の鮮やかな青に妙な感覚を憶えた。さらに、「サン・ゴタール山の峠、悪魔の橋の中央からの眺め、スイス」と題された渓谷を上から眺める作品は足元を掬われるような感覚と渓谷の垂直性がせめぎあっていた。いずれにしても、画家の身体、観客の身体が一旦保留されるような一貫した感覚(足元の不安定さ)が風景画という一見安定した構造の中に含まれていることに改めて驚いた。そういえばと言うか、ターナーのトレードマークである水彩は、流動性の高い絵具であり、まるで彼の芸術のようである。