ゴードン・マッタ=クラーク ー芸術の社会性についてー

   

 
 ゴードン・マッタ=クラーク展に行って来た。場所は東京国立近代美術館。事前の知識として、「スプリッティング」という解体予定の住宅を電動ノコギリなどで真っ二つにスプリット(割る)する作品が有名で、70年代のニューヨークを中心に活躍した作家で34歳という若さで亡くなったことは知っていた。建築科を出ながら、建物を建てずに建築に関るというちょっとパラドキシカルな制作態度が興味深かった。展覧会の印象としては、作品の断片性が目立った。一つ一つの作品がピースのようになっていて、後で全てを組み合わせると完成するようなイメージを感じた。
 初期の作品として「ウィンドウブロウアウト」(1964年)がある。これは、ある都市計画にマッタ=クラークが参加した時の作品。都市計画の影にアフリカ系やヒスパニック系の住民が締め出される矛盾を感じたマッタ=クラークは展示会場の窓ガラスを真夜中にモデルガンで割ってしまう。そしてサウスブロンクスの窓ガラスが割られた建物の写真と共に展示した(後に展示会場の窓ガラスは修復されてしまう)。私はこれを見て、建築科を出たマッタ=クラークならではのアプローチだなと感じた。建築とはあらゆる社会制度の中に組み込まれたとても政治的な制作行為である。そこに、「割る」という破壊行為を通じて建築を表現していくという、自己否定を通じて社会と繋がっていくマッタ=クラークの制作態度は10年という短い制作期間であったが、一貫している。
 次に「スプリッティング」(1967年)の作品を見た。これも都市計画と関係があり、郊外の住宅の再開発に取り残された住宅を真っ二つに電動ノコギリで割った作品。真っ二つになった住宅の写真と、当時の映像が展示会場で見られた。マッタ=クラークの作品の特徴として、マッタ=クラークが手で割った(破壊)という行為がこちらの身体に伝わって来るのである。その場に行かなければこの作品を味わう事は出来ないだろうなと感じながらも。そこには、現代の都市生活が“経済的な理由”で日常的に破壊行為が行われていることを無意識の中で我々が感じているからではないだろうか。
 こうした、プレゼンテーション的な制作態度はともすると制作理由がはっきりしすぎるためにデザイン的な印象になりやすい。しかし、マッタ=クラークは美術としても成り立たせている。それは、「スプリッティング」の作品とともに制作した、「4つの角」という分割した住宅の屋根4つの作品がある。これは、当時ギャラリーに展示された。私はこれを見て、見上げるはずの屋根が眼下にある驚きと共にそこにスケールが転覆するある仕掛けを感じた。そして、直観的に天地を繋げようとしたマッタ=クラークの意思を見た。天地の発想は「スプリッティング」の割れた部分から太陽の光が地面に差す映像が残っていることからも分かる。マッタ=クラークの個人と社会を繋ぐ回路は現行の美術制度から外れている。
 私はマッタ=クラークの、制作という側面から少し切り込んでみたい。彼の作品にある都市計画をバックグラウンドとしたものではない部分。晩年の作品に解体予定のビルを切り刻む作品がある。「オフィス・バロック」(1977年)という作品で、古いビルをカットアウトする構想をしていたマッタ=クラークはスケッチを重ねながらビルの持ち主と交渉をしていた。しかし、中々思うように進まずにいた。業を煮やしたマッタ=クラークは確認を取らずに制作を始めてしまった。外観はいじらずに建物内部だけをカットアウトすれば良いと考え、数ヶ月を要して作品を完成させた。様々な写真と、映像に痕跡は残されており、自分もそれを見た。ビルの床を縦に少しずつずらしながら穴を開けていく作品。それ以外にもいたるところに空間を分割する仕掛けがあり、迷宮のようだ。映像の中で彼は「みんなは自分に一目瞭然の作品を求めるけれど、全体を見通せない作品が良いんだけどね」「同心円と離心円の関係」など宇宙的なスケールで、内部空間と外部空間が交差する構造を観客が体験することを考えていたように思えた。映像の中で、懸命に電動ノコギリで建物を切っていた彼が印象的だった。