インポッシブル・アーキテクチャー

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 埼玉県立近代美術館に、インポッシブル・アーキテクチャー展を見に行って来た。インポッシブル=不可能な、という言葉に逆に建築の純粋性をどこに探せば良いのかという期待を胸に美術館に向かった。実際に建つには至らなかった様々な建築家のドローイングや模型から建築とは何かを考えさせる展覧会。先ずは有名なウラジミール・タトリンの第3インターナショナル記念塔があった。塔の角度が23.5度と地軸と同一にすることで重力から開放されるというイメージがあるとのこと。映像では実際の大きさをCGで再現して街中に巨大なモニュメントが出現された様子が映し出されていた。やはり建築は美術(美術もスケールが大きければ同じ)と違い、大きさが一つの機能であることが映像から見て取れた。タトリンの頭の中の構想が再現されたわけだ。ここで建築の不可能性の中にある可能性として、建築家の頭の中から建築は始まっているのだという事実が確認された。建築物は通常我々の外側に機能的な実在として存在する。

 次はカジミール・マレーヴィチのアルヒテクトンの模型があった。タイトルに「無対象の世界」とある。独特のバランス感覚から先ほどのタトリン同様、建築が重力から開放され拡がっていくような感覚に襲われる。通常建築物は権力などの象徴に使われるため、力強さを表現することが多い。建築物の正面にあるファサードなどはデザインとして強調される。そうした「力」をどう扱うかが建築の第一の概念であるといっても良い。ロシアアバンギャルドなどの理想主義が当時のソ連社会主義の中でそうした人々の願いを表現したことは興味深い。

 また、ヨナ・フリードマンは模型ではなく、スケッチで自らの空中都市のビジョンを示していく。空中に浮遊した都市は、実際に存在するところを頭の中で想像すれば先ほどの理念としての理想ではなく、もっと人々の生活に根ざした理想である。スケッチであるところが見る人の想像力をかきたてる。

 黒川紀章の建築模型は遺伝子の螺旋のようだ。建築とは人が何らかの機能を持たせた構造物であり、その身体的なスケールがどのように表現されているかで建築の概念が違ってくる。黒川紀章メタボリズムという概念で自らの建築を説明しているが、有機的な流動性を理論構築している“イメージとしての建築”に思われた。それは同じくメタボリズム建築家の菊竹清訓も同様にイメージが具現化された建築であるような印象を模型から受けた。

 私が今何を言っているのかと言えば、建築というものは機能を持った構造物でありながら建築家の頭の中から出て来る想像物なのだということだ。街中にあるどんな建築物もある程度のプランから設計図に起こし、建設される。小屋のようなものは別として。小屋でさえ、建てた人の頭の中から出て来るのである。私はこの「頭の中から出て来る」ことの違いを模型や、スケッチに見て取りたいと思っているのである。建築そのものを客観的に認識する手前の段階。それは建築家自身も同じである。むしろ建築家自身が一番知っているのだから。

 少し会場を進んだところにジョン・ヘイダックのドローイングがあった。キュビズムやデ・スティル、主にモンドリアンの斜めの線に影響を受けたとされる。通常は四角い平面図をアイソメトリックに書くところ、四角を90度倒して菱形にしてそれをアイソメトリックに書くという方法で設計をするというもの。実際の図を見ているとどんな建築物の中に足を踏み入れているのか想像しにくいが、とても刺激的だった。彼は“建てない建築家”と呼ばれていた。実際の建築物もあるようだが、興味深い。晩年、寓意に富んだ建築物を思考していた。その中には社会問題を扱ったものが多かった。実際のドローイングがあり、実現したものとして、現在チェコプラハの公園に自殺者の家、母の家と題した建築物がある。

 もう一つ気になった建築はレム・コールハースのフランス国立図書館だ。彼によれば、書物や映像を収納する書庫は人類の知性の塊のようなもの(ソリッド)。そしてそれらを繋ぐ閲覧する空間はヴォイド(空洞)とする。これは図書館が持つ機能を、新しい知性を作り出す場として「ソリッド」と「ヴォイド」という空間を分けることで“未知の知性”が“既知の知性”から生まれると解釈した。

 最後に未完成に終わったザハ・ハディッド基本デザインの東京オリンピックスタジアムの模型があった。そこには実現可能な建築、と書かれていて、実際の設計に要した記録物も一緒に展示してあった。そこに関った多数の人々と時間とお金というリアリティから、建築とは何かという振り出しに私を戻してしまったようだ。