-芸術と距離-

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 ジョセフ・コーネル展を川村記念美術館に見に行った。入り口でフランク・ステラの巨大彫刻に目が留まった。しかし次の瞬間、これは絵画だと気が付いた。確かに三次元の金属の塊だが、作品に平面性と正面性が見えた。私は見る距離と角度を変えながら、作品の見え方を楽しんだ。建物の中の広い展示空間に入ると、そこでもフランク・ステラの巨大絵画に目が留まった。私は動くことが出来ず、かと言ってじっとすることも出来ず前に進むべきか、右か、左に方向を取るか悩んだ。

フランク・ステラは絵画の矩形(四角)の制度に取り組んだ画家として認識されている。変形キャンバスを使い、地と図の構造を使いながら、描かれているシンボルとシンボルを支えるキャンバスの関係を表現してきた。そこで作品を見ている観客の視線に何が起きるのか。通常はキャンバスの真中に描かれたシンボルを見つけようとする。それが絵を見るという制度だ。しかし、ステラの作品は真中に意味を求めようとする人の視線を横方向へ逃がしてしまう。キャンバスの枠へと逃げた視線はまた意味を求めようと真中に戻る。その内、作品の大きさに気付き、材質や、作家の痕跡を見つけようと視線と感覚が忙しく動き回る。そうした意味と感覚のゲームのようなステラの作品は美術のアスレチックの様でもある。私は都内のビルのロビーでステラの巨大絵画を見たことがあるが、その作品の前を忙しく行き交うサラリーマンと妙にマッチしているなと思った記憶がある。

そのステラの展示空間と一体となった感覚の後に、ジョセフ・コーネルの作品群と出会った。コーネルは作品集などの写真でしか作品を見たことが無く、実際に見るのは初めてだった。有名な箱のオブジェをこの目で見るのを楽しみにしていた。最初にシュールリアリズムに影響されたコラージュや版画が紹介されていた。なるほど、あの箱の作品の背景にはこういう作品があったのか、などと一人納得していた。その内箱の作品群が表れた。コーネルは様々な場所で拾ったり集めたりした日常品を箱の中で組み合わせて、ひっそりとした劇場のような空間を作った。それらのイメージは時間が経った何かであり、拾うという行為があって初めて成り立つ作品であった。作品の中で楽譜が箱の中に納められているものがあった。そこには周りの音を遮断するヘッドフォンが会場側の配慮で置かれていた。試しに耳に掛けてみたが、逆に僅かな人の足音が気になって作品に集中することが出来なかった。

次の部屋ではサイレント映画が上映されていた。そこでも同じくヘッドフォンが置いてあった。予想はしたが、やはり周りの音が聞こえつつサイレント映画を見た方が感情移入出来た。そこでの内容を文字で説明するのは困難だが、映画を見ながら突然コーネルの内面が自分に伝わって来た気がした。それからは、コーネルがなぜ日常品を拾っていたか、家族とひっそり暮らしていたか、弟に障碍があったこと、などが津波のように自分に襲って来た。

私は再び箱の作品のところへ戻って、作品を確かめてみた。拾った小さなガラスの器が釘で留められている。他にも釘で様々なモノが箱に留められているのだが、こんなに可愛らしい釘は初めて見たと思った。コーネルの、世界に対する距離がそこに表現されているのだと感じた。初期の作品であるコラージュや版画では、世界観は伝わるが直接的なコーネルの感覚までは伝わって来ない。

私は今回の文章のタイトルに芸術と距離と付けた。作品というのは作家が居て存在する。作家の唯一のかけがえの無い身体があり、作家の、歴史や世界に対するスタンス(距離感)が表現されてしまっている。フランク・ステラの作品は美術館や大きなビルで見るとその本質が伝わって来る。またジョセフ・コーネルの作品は誰かの家に本来は飾られるべきなのかもしれない。私はコーネルの作品が美術館の壁から遊離しているのを感じた。