ドービニーと印象派

 

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 新宿にドービニー展を見に行った。ふと印象派と風景について考えたくなった。いつも印象派というとどこからが印象派なのか、何が印象派なのかという論議になる。それだけ長い時間掛けて画家が関ってきた画題なのであろう。そんな思いをしたためながら新宿へと向かった。先ずはドービニーと同時代の風景画が並び、序章と題してコローに代表される作品が並んでいた。私は、その展示はさっと流してドービニーの作品の展示へと向かった。私はいつも自分の展覧会へのある欲求を抱えて見に来ている。今回はドービニーと印象派だった。ドービニーの作品と先ず向き合ってから周りの同時代の作家の作品を比べたかった。

 作品を見続けていくと横長の作品が非常に多い事に気が付いた。これは風景画としては当然のスタンスである。風景と言う概念が広がりを求めているためにキャンバスが横に長い。上部に空があり、地平線が中部に来て手前が川という構成がドービニーのスタンダード。ここで自分の印象派観が主にモネなどに代表される“風景を描くこと自体”に画家が向き合う時代の作品を指していると分かった。調べてみると、ドービニーの後にモネが続いていてモネはドービニーの影響を受けたと言われている。またセザンヌとも交流があった。そうした芸術の時代の流れはいつもダイナミックである。

 私はドービニーの光の捉え方に目を奪われた。光源である空の存在。また大きな樹木などを介して逆光を捉える。そして反射光としての川の水面。これらの光の表現が織り成す空間が穏やかな一体感を伴う。レンブラントなどに代表される光を劇場的あるいは観念的に使う古典的な在り方ではなく、普段我々が戸外で感じているような自然さがそこにある。またドービニーは船をアトリエとして、川から絵を描いていたようである。会場にもボタン号と呼ばれたドービニー所有の船の模型が展示してあった。

 ここであることを思い出した。私が通う職場の近くには川が流れている。時々川岸に下りて散歩をしていた。そこでは鳥のさえずりや、魚が跳ねる音など普段我々が忘れてしまっている自然の時間が横たわっているのを発見し、不思議な透明感を味わう事があった。ドービニーももしかしたらそうした、川から風景を見ることで自然を再発見していたのかもしれない。

 後期印象派と言われているゴッホイーゼルを戸外に持ち出して風景に我が身をさらしてキャンバスに向かっていた。先日も美術館が修復中のゴッホのキャンバスの中からバッタの死骸が発見されて、戸外で描いていた史実を証明した。ゴッホのことを書いていたらある作品を思い出した。ゴッホの晩年に描かれた「カラスのいる麦畑」という小さな横長の風景画。濃い青空に無数のカラスが飛んでいる。確かこの作品の後にゴッホはピストル自殺を図っている。何故思い出したかというと、ドービニー展のポスターに“ゴッホの愛した画家”と描かれていたからだ。確かに愛していたかもしれないが、ゴッホの性格からして自分には無いものをドービニーの作品に見ていたのだろう。ドービニーの小さな横長の風景画とゴッホの小さな麦畑の作品がほとんど同じ大きさであることからもそれが伺えると私は感じた。

 風景を介して様々な画家がキャンバスに挑んだ。風景画とは、肖像画などの権威を表現するものから時代が近代へと移り、田園思想のもとにブルジョワジーが部屋を飾るために求めた画題でもあった。そうした、求められる画題と画家の葛藤が印象派と風景画の間ににあったのだと改めて感じた展覧会であった。