「表現の不自由展、その後」 -芸術の社会性について-

 

 

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8月の頭から色々と問題になった、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展、その後」。脅迫による展示中止に纏わる、報道、また個人レベルでの意見、美術関係者での議論など個人的にもSNSを通じて発信してきた。率直に言って、ここまでネットの情報が作品自体を飛び越えて人々の思惑を映し出したのを始めて体験した。

展示の主旨は過去に展示拒否を受けた作品を並べて鑑賞者に作品を展示することの意味を問い掛けるもの。一部では作品の政治性が強すぎると言う意見も出たが、私としては政治性よりも社会性を問うた展示であったと思う。しかし、賛否がこれほど巻き起こる(出展作家同士含め)のにはそれなりの背景があることが様々な意見を聞きながら私は思った。

その分かり易い例として、出品作家の中垣克久は今回問題の中心となってしまった彫刻家キム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻の制作した「平和の少女像」作品に対して「あれは工芸である、一緒に展示されるのは不満だ。理由は自身の作品は純粋芸術であるから。」と語っていることだ。中垣克久は別の場面で作品は多様性が大切であるから展示を中止するのはおかしいと矛盾とも取れる発言も述べている。また、芸術監督をした津田大介から出品者を事前に知らされていなかったのはおかしいとも発言している。そうした内ゲバ状態があちらこちらで噴出したのも今回の騒動を大きくしている。それが津田大介の思惑だったなら、内ゲバを含めた騒動が活発な議論を呼ぶだろうということなのか。

確かにそうした面が無かったわけではないと思う。何を正しいと考えるのかは専門家の特権では無い。最も、今回展示された作品は現代美術という枠組みが既にあり、現代の問題を主に個人が内面化して作品を展示するというのが作品の役割である。そうした面から言えば、中垣克久の円墳作品もキム夫妻の少女像作品も同じ目線で鑑賞者に委ねられるべきである。

また良く言われる紋切り型の税金を使った公共施設での展示という側面。これも論理的には、展示作品を見ること自体が公共的(パブリック)なことなので、感情的に個人がけしからんというのは批判に当たらない。ただし、日本社会に残る風習として公けと、パブリックの概念の了解の違いが露呈され、それ自体が議論されねばならなかった。しかし公権力者自体がパブリックの概念を否定しているのを見ると、問題の根は深いと言わざるを得ない。例えば税金はみんなのために使わなければならないとした場合、ある個人がその税金を必要としていればその個人も「みんな」の中に入っているはずである。日本社会にある集団合意型の傾向がそうした偏った税金に対する考えを持たせるのだろう。

こうした社会的な側面が多い作品を芸術ではないとする意見も少なくなかった。美術関係者でも意見が分かれた。ただし、現在世界的な作品傾向としてこうした社会的な作品を鑑賞者は求めていることが背景にある。作家も美術館側も何をどう展示するのかを求められている時代になっている。そうした時代背景がある中での今回のあいちトリエンナーレでの展示である。今回の記事は「表現の不自由展、その後」を中心に書いているが他のトリエンナーレの作品も展示すること自体に意味合いがあり、鑑賞すること自体に重きが置かれている。

記事を書いている私は実作品を見ずに書いているが、今回書きたかったことの一つはインターネット上や、報道で作品(事実)を見ずに様々な(自分含めて)人々が自分の都合の良いように解釈していることが改めて分かったからである。問題はこうした公共の場(みんなの意見が出る)場所をこれからも作っていかないと日本社会は同調傾向があるので危険であるなと感じた。