「見える自然と見えない自然」 

 

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表参道のワタリウム美術館で「ロイス・ワインバーガー 見える自然と見えない自然」展を見た。2階の会場に入るとドローイングがあり、移動式の庭が大きなキャスターの台車で作ってあった。ワインバーガーはこの自然を“移動させること”で作品を成立させるのだと語っていた。しばらく会場にいるとある変化に気が付いた。たまたま観客が自分しかいなかったからか、妙に静かなのである。普通なら作家の世界観が充満し、むせ返るはずだ。しかし違うのである。会場である吹き抜けのある空間が静かに息づいている。私は静けさに身を委ねた。所謂現代的な芸術作品から感じる感覚と違うなと思った。

私は会場に来る前に日本文化に於ける自然との関係を自らがどう感じるかを頭に描いていた。所謂自然(ジネン)を含んだ観念(通念)である。見事に裏切られた。ワインバーガーの自然感覚はもっと原初的なものであった。ワインバーガーは父親が行っていた自然に対する儀式の体験が決定的な何かを自分に与えたと語っている。ワインバーガーの作品は自然をモチーフにしながら政治的でもある。自然がシャーマニズムを介して現代社会に何かを訴えているように解釈出来る。自然がワインバーガーの身体を通して作品へと昇華する。しかし作品は対象物としての体裁ではなく、あくまでも自然との媒介物として我々の目の前に現れているのである。3階の会場では草が“お下げの髪”のように結わえられた作品があった。また、“たんぽぽのアンテナ”と題された板材で作られた作品もあった。それぞれが美術品である手前の何かを表わしているような気がした。

この徹底した媒介する感覚が私には「芸術」そのもののように思えた。美術史に於けるモダニズムは美術品の自律を目指し、要素に還元し芸術という実体を作ろうと心がけて来た。しかしそうした絶対性を求める方向性は制度としての芸術を庇護するものでしかなくなってしまった。

ワインバーガーの仕事に、廃線になってしまった線路に外来種の植物を植えるという作品がある。ワインバーガーは作品の背景に移民、難民問題があることを語っている。そこには、ファシズムナショナリズムへの批判があることを本人が語っている。自然と言うボーダーレスな非物質世界と人間の物質主義との対比は政治なのである。ワインバーガーは社会から求められる仕事として「荒れ地」を探求すべきだと感じたと言う。バケツに土を入れた物をコンクリートの上にただ並べる作品がある。土にはもともと何らかの種子が含まれているからワインバーガーの手を離れて芽を出し、やがてバケツは壊れて作品も消滅し、作家のワインバーガーも居なくなるという。4階の会場ではシャーマンに扮した「グリーンマン」のワインバーガーの写真が貼ってあった。奥の映像では植物に乱暴に近づき葉や茎を破壊する作品があった。その自然をむやみに破壊していく音は何故か嫌悪感を感じる事は無かった。

私は彼の作品を通じて「美術作品の政治性」への考え方を改める必要性を感じた。どんな美術もAではなくてBであるという論理が作品にある以上それは政治なのである。また、そこに物語としての寓意を込めて観客である我々がコミュニケーションをしていく。自然がテーマであるからこそ我々日本社会に根強い「自然」という通念との比較が出来たことも付け加えておく。

ワインバーガーの言葉の作品。Weedは雑草。

I-weed

YOU-weed

HE-weed

SHE-weed

IT-weed

WE-weed

YOU-weed

THEY-weed