芸術と眼差し

 

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芸術家の眼差しを比較することで何が見えて来るのだろうか。そう自分に問い掛けて著名な芸術家の眼差しと、その眼差しで作られた作品を比べてみた。先ずは、アンディ・ウォーホル。ガラス玉のような目が印象的で、何も見ていないかのようでもある。本人の個性というものが剥ぎ取られている。でも紛れも無くウォーホルである。次に彼の代表的な作品の一つであるマリリン・モンローを見る。ウォーホルの眼差しと自分の眼差しと、世の中のマリリン・モンローのイメージが重なって見える。またモンローの表情から何かを読み取ろうと試みるがモンローに被さったイメージしか見えて来ない。こうした作品の印象とウォーホル自身の眼差しの一致は何を意味するのか。

 

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今度はフィンセント・ファン・ゴッホである。写真は若かりしころのゴッホ。理想に燃えている純粋な眼差しを感じる。そしてゴッホの自画像。ゴッホほど自画像を沢山書いた画家もいないだろう。ゴッホは自画像を通して何を描きたかったのだろう。頭部から下は意図的にボリュームを表現していない。頭部にしか興味が無いかのようだ。眼がとても深いところを見ているように感じる。しかしどこにも向かっていない深さ。行き先が無いけれどもひたすら深い。眼差しというものは、方向性を持っている。眼の特性上そうした機能が物を捕えたり、歩く行き先を判断するのに役立っている。ゴッホの作品に代表される無限に向こう側へ行く風景画もそうしたゴッホの内面のパースペクティブを表わしているのではないだろうか。何度見ても眼にしか関心が行かない不思議な自画像作品である。

   

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みんなが知っているパブロ・ピカソはどうだろう。ピカソの眼差しを最初に見た時、ゴッホとは逆に目の前のものにピントが合っているような感覚があった。もう少し見つめていると、「現実」のような言葉も出て来る。しかも鋭く見ている。獲物を逃がさないような。作品はどうだろう。人物の眼がピカソそっくりだ。何故かそっくり同じだなあと思ってしまう。自分が見ているものを自分色にしてしまうような、描かれているもの全てがピカソであるような。

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次は彫刻家であるジャコメッティの眼差し。先ほどのピカソのように写真のジャコメッティと絵画がそっくりな印象を持つ。ジャコメッティのどこまでも遠くを見つめる眼差しは絵画作品でも繰り返されている。ジャコメッティと絵画が見つめ合っているかのようである。ジャコメッティが呼ぶ「私の現実」という言葉が示すように、自分が見ている現実とは何なのかという終わりの無いアプローチとの闘いから生まれる作品なのだろう。彫刻と絵画を交互に描き、昼間モデルを目の前に制作してから夜間は記憶で制作するという実験的な制作姿勢も興味深い。写真と作品の間に見える距離感が面白い。

 

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5人目のルイーズ・ブルジョアは六本木の森ビルにある蜘蛛の彫刻が有名である。彼女の眼差しは複雑だ。優しくもあるが厳しくもある。厳しいと判断しようとすると包み込むような感覚が次にやって来る。作品も複雑だ。身体をモチーフにした彫刻を沢山作っているが、単なる彫像ではなく、もっと器官としての身体というか、人間という生きものの彫刻というか。ペニスをモチーフにしたり。身体の根源的なイメージ。身体を持つ人間の性(さが)を彫刻する。使用する素材も多様で、柔らかい布だったり、硬い大理石だったり。

芸術作品の鑑賞として、作品だけ見ると良いか悪いかの判断や好きか嫌いか、あるいは分かるか分からないかの判断をついてしまう。しかし眼差しというものは人に等しく与えられたものという前提を持つと私はイメージしてみた。もちろん好き嫌いを言う事を否定している訳ではない。しかし現代の日本社会に於いて芸術が今後様々な人に開かれていくためにも作品の「見え方」を考えることは必要ではないだろうか。