芸術と眼差しⅡ

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今回は彫刻家の眼差しと作品を比較してみます。一人目はハンス・アルプです。ダダイズムの芸術家でダダという無意味な音に表現される、芸術制度を批判する運動に参加していました。先ずは眼差しですが、検索してみると俯き加減で深く思考しているように見えました。続いて作品を見てみます。有機的なカタチが印象的です。しかし、抽象的で何を表わしているのかすぐには分かりません。良く見ていくと、カタチを決めている輪郭線が終わりの無い視線の運動を誘います。その終わる事の無い視線の運動はやがて思考を促します。方向性の無い有機的なカタチは「自然とは何か」を思考するアルプのようです。また彫刻であるのに鑑賞体験がとても視覚的だということに私は改めて驚きました。

 

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二人目はアントニー・ゴームリーです。ゴームリーの顔写真を見ながら眼差しはとても遠くを見ているなと感じました。しかし、作品と較べたとき彫刻作品が持っている内省性との違和感を覚えました。そこでゴームリーと同じように右手と左手を組んで顎にのせてみました。すると彫刻作品の印象と一致しました。それは、両手を組んで顎にのせる事で私の身体が内側に閉じて安心したからです。実際の作品もこうした矛盾した構造を持っています。画像の彫刻作品は輪郭としての人のカタチをかろうじて保っています。しかしその透けているカタチは私たちが内面としての心を持つ物体だと感じます。日本でもゴームリー作品が商業ビルの公共空間の中で見られる場所があります。そこでは忙しく行き交う人々の中にポツンと立った人型作品が、その一人一人の人間には内面があることを暗示しているようです。

 

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三人目はコンスタンティンブランクーシです。作家の手で鋭く磨き上げられた作品は荷物検査で武器と間違えられたという話もあるようです。顔写真を見て先ず驚いたのは眼を隠しているように見えたことです。しかし視線は遠く真っ直ぐ見ている。遠くを見ているが距離のようなものは見えない。ブランクーシの作品は素材の色がとても鮮やかに見えてきます。彫刻作品の一般的なイメージは一色です。しかし、ブランクーシは金属、石、木の素材を幾何学的なカタチに還元しそれを繋げることで作品を成立させています。画像では金色の真鍮、白い石、硬い濃い茶の二種類の木材。これらが幾何学的な視覚のバランスによって、森羅万象が全て一つに繋がったような印象として我々を襲います。この全てが繋がってしまったような感覚がブランクーシの眼を隠し、自分を主張しない理由なのだと思われました。

 

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最後はエドワルド・チリダです。大きな鉄やコンクリートの彫刻を野外の空間に置いている作品で有名です。最初作品の理解が先に進み、作家の顔写真の眼差しとの不一致が不思議でした。遠くを見る眼は確認出来ましたし、何か対象物を見ている感覚も見受けられました。そこで肖像写真を検索していくと、力強い握りこぶしとチリダが映っている画像を見つけました。そこで私も同じように手を思い切り握りました。すると、塊だと思っていた私の手が突然空っぽの空間に感じられました。この空っぽの空間感覚がチリダの作品の特徴である内側と外側を繋ぐような印象を与えるのだなと思いました。周りの環境と繋がっていくような彫刻はそうしたチリダの身体感覚から生まれたのでしょう。

ここまで彫刻家の眼差しを見ていて気付いた事は、彫刻という目の前のカタチを巡る思考が身体を持つ我々の感覚から生まれる事の再確認でした。画家とは全く違う制作へのアプローチが彫刻家には存在するのです。