鑑賞と身体 ー芸術の社会性についてー

 

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正月早々川村記念美術館に行って来た。常設展であったが、一度ゆっくり見たいと思っていた。お目当てはアメリカの画家であるエルズワース・ケリーだ。しかし、他の所蔵作品も独特の空間構成の美術館なのでどんなふうに見えるのか楽しみだった。最初の部屋は印象派前後の作品が中心。観客はほとんどいなくて、貸し切りの状態に近かった。クロード・モネの睡蓮を見ながら画面奥に向かう浮草と水面に映る景色のコントラストをピント合わせするカメラのように身体を前後に動かしながら見ていた。オーギュスト・ルノアールがあったり、ピエール・ボナールがあったり。ボナールは見ていると泣きそうになるなと思った。

レンブラント肖像画を見やりながら次にあった小部屋は所謂構成主義の作品群。ワシリー・カンディンスキーやナウム・ガボカジミール・マレーヴィチなど。構成主義の絵画は抽象的な幾何学的構成だけで作品を作ろうとしたあるユートピア性がある。より個人的な芸術的ビジョンが強く意識されていった結果でもあるだろう。今回見て来ている19世紀前半の多くの作品は西ヨーロッパからロシアにかけた地域で生まれた作品である。芸術のメインストリームが当時どこにあったかを示すものでもある。近代以降の市民意識を強く反映した芸術運動であったといえる。

次の大きな空間にはアメリカの画家エルズワース・ケリーがあった。冒頭でも言ったが見たい作家であった。印象派前後の絵画作品と明らかに作品の見え方が違う。モネの作品でしたような前後に身体を動かしてピントを合わせるような作業が無い。代わりに身体を左右に動かしたり作品の間際まで近付いたり、また遠ざかったり。身体を大きく動かす必要がある。これは歴史的に美術の動向が世界の政治や経済の動きと連動してアメリカに主流が移ったことに起因している。アメリカの大きな大陸と個人を称揚する文化が大きな作品と個人崇拝を助長したのであろう。偶然ではないが後に見たマーク・ロスコ同様テキサス州オースチン)に絵画作品で構成した教会空間を作っている。こうした、作家が生活している場所(国)と作品とは密接であり、また作品を鑑賞する上でもそうした作品の必然性に従って見ることはとても示唆に富むことだと改めて感じた。
 

部屋が少し暗く狭くなっていった。そこはシュールリアリズムとダダ(19世紀前半ヨーロッパ発祥)が中心の部屋だった。シュールリアリズムとダダの作家は個人の立ち位置を鮮明にするよりも人間の無意識に向き合った芸術運動である。無名性を志向しつつ個人を探ったというところか。マックス・エルンストハンス・アルプマン・レイ、ジョセフ・コーネルなど個人的に好きな作家が多い。その先にはアメリカのアレキサンダー・カルダーの彫刻が一つの部屋に構成展示されていた。先ほどのケリーのように強く風土性を感じた。明るく開放的な作風。パブリックアートがよく似合うなとも思った。部屋の空調に合わせてカルダーのモビールが泳いでいた。ヨーロッパの構成主義が転じたような趣がある。
 

警備員が深く頭を下げたような気がした。ロスコルームである。先ほどのケリーのように教会空間をテキサス州(ヒューストン)に作った。川村記念美術館のロスコルームはヒューストンの教会をイメージしている。先ほどのシュールリアリズムとダダの部屋よりもさらに暗く作品の詳細は分からない状況。それでも魂に訴えかけてくる何かがあった。こうしたヨーロッパからアメリカへ移る歴史のダイナミズムと個々の芸術作品の関係はそれぞれの作家の身体から生まれるだけに興味深い。
 

階段を上がり、さらにアメリカの作家が続く。サイ・トゥオンブリーの絵画と彫刻だけの明るく白い部屋があった。やはり空間と作品は密接だと静かな作風から感じ取った。最後の部屋はフランク・ステラの巨大な絵画作品があった。大きな空間で静かにゆったりと作品と向き合うことが出来た。ステラの作品は作品の周りを眺め尽くす楽しい作品である。身近な工業的な素材を使った作品は、「そこにあるのは作品そのものであり、あなたが見ているものがあなたの見ているものだ」という言葉を残している。

少し駆け足で書いてしまったが、近現代の芸術作品(所謂現代アート含め)を見るということはその時々の社会とそれに向き合った個人の魂の記録である。故に作品自身に答えは無く、様々な作家個人の魂の運動を受け取る鑑賞者と作家との絶えざるコミュニケーションだと言えるかもしれない。