音を探すワークショップ -芸術の社会性について-

自分の勤めている主に重心(知的と身体に重いハンディキャップがある方)の障害者施設で、音のワークショップが3日間開催された。主催は障害を持った方とアートを繋ぐNPO法人が行った。企画の意図として音という個人的な感覚を、利用者(施設を利用している人)と支援者(利用者を支援する人)がどうやって共有出来るのかという狙いがあった。

一日目は2グループに分かれて空間を二つ使い「音を出すグループ」と「音を聴くグループ」に分かれた。主催者スタッフが差し出す集音マイクに声を出したり、楽器を鳴らすなどして反対側でスピーカーを通して聴くグループが耳を澄ました。利用者の様子を見ながら、個々の利用者の出す音を利用者同士が聴くという経験は普段支援者の立場で物事を進めて来たことへの反省を感じることとなった。利用者はこちらが思うほどお互いの音に対して嫌がっているわけではないと思われた。苦手な音はあるだろう。また主催者スタッフが利用者の音や声にとても関心を持ってくれた。

 午前中の主催者スタッフの振り返りでは、利用者の「音」への関心の高さに驚く声があった。特に「音を聴くグループ」ではみんなが一心に音の風景に耳を傾けていたと。こちらが意図した時間ではなく、利用者が自身の耳に向き合う様子は今後の支援を考えさせた。支援者の意図に利用者を振り向かせるのではなく、利用者の関心(リアクション)に支援者が向き合う。こうした利用者の関心がこのワークショップの重要な要素になっていくのかもしれないと感じた。午後は一人一人にスポットを当てていくというコンセプトで、集音マイクを持ちながらヘッドホンを耳に当てて音を探すワークショップを行った。リアクションは本当に様々だった。ヘッドホンに驚きつつも、聞こえてくる音に集中する人、ヘッドホンが耳に触らなければ音を楽しめた人、ずっとヘッドホンを外そうとしない人、マイクをコミュニケーションの道具にする人など。一方で支援者は利用者がどう聞こえているのか分からず先ずは支援者が先にヘッドホンを体験するなどワークショップの個人性に気付くところは良いと感じた。

 二日目は主催者スタッフが採取した音を立体的な音響空間(サラウンド)で体験するというワークショップ。電気を消して明り取りから差し込む光に包まれた空間は耳を澄ますには良い空間に思われた。車椅子に乗ったまま、床に降りる人などそれぞれの参加の仕方で臨んだ。いくつか採取した音が途中で切り替わる(波の音から鳥の声に変わる)ことで意識が出来てより音に集中する利用者の様子があった。またその音が何の音かを想像する利用者も見られた。また周りの音をより集音するようなパイプや大きな鍋のようなものを利用者の体に接触させることでより鮮明に音を体験し、リアクションを引き出す様子もあった。視覚に左右されて聴覚に集中できないと思われた利用者は、支援者が目を手で覆うことで聴覚に集中する姿もあった。こうした、より個人の感覚や身振りに近づこうとする活動は今後の支援に活かせると思われた。集団の中の個人と、個人の感覚そのものに寄り添う支援はまた別の活動であることを再認識することになった。一日目の日常音から二日目の個別な音への移行は、利用者の感じる空間がより狭まったと言える。

午後の時間は、初日に体験した集音マイクとヘッドホンをイヤホンジャック2つにして利用者個人の体験を支援者と共有出来るようにした。中庭に出て周りの音やみんなの声を拾って聞いた。特に枯れ葉を手で砕く音は耳障りがあり、支援者の方がむしろ苦手な様子が伺えた。また支援者自らの声がマイクで変換されて自分に聞こえるので声が他者化されている状態になっている。ある支援者はテレビの向こう側から音が聞こえてくるようで、その声を利用者と一緒に聞く経験は変な感じがすると言っていた。これは、我々支援者の声がどのように利用者に聞こえているかを想像することに繫がるのかもしれない。また支援者と利用者がお互い同じ音を聞くことで、体験を共有することは昨日と大きく異なることであった。

 最終日の三日目はスタンド式のマイクを幾つか用意し利用者の声や音が自分たちの居る空間に響くという試み。自分の声が響くことを楽しめた利用者の中にこれまでのワークショップではあまり入り込めていない様子のある人がいた。また普段施設で目にしているマイクを見つけた利用者はマイクで身体を叩いて楽しむ様子が見られた。そうした、自分と結びつけることで活動に入り込める利用者と、聞こえてくる音をそのまま楽しめる利用者、様々な利用者の姿があった。今回支援者が何かを作る、何かしなければならないわけではなく純粋に利用者が楽しめば良い(利用者と同じ目線)というコンセプトであったことが良かったと思われる。楽しむことが決まっていなく、どう楽しむかを利用者と共有(遊びの感覚)すること。午後は利用者が音を出しやすいように3つのエリアに3つのマイクを設置した。一つは声を主に拾う目的のマイク。もう一つは床の高さにあるマイク。もう一つは音が出る道具の傍のマイク。それに加えてパラボラ型の集音マイク。準備が出来て利用者に声を掛けて集まってもらったが、人数が揃わない時点から徐々に始めてみた。「始めます」という、号令から始まるのではなく、少しずつ何かが重なるように配慮した。

最初のグループは積極的に体が動く利用者が多いように感じた。徐々に慣れてくると支援者の関わりに誘われて道具を鳴らし始める。支援者もマイクに向けて道具を使って音を出す。そうした遊びの空間が利用者をリラックスさせているように感じた。興味深いこととして自ら身体は動くが支援者の関りが無いと楽しむことが難しい利用者の姿があった。逆に音に包まれている空間自体に心地よさを感じている利用者の姿もあった。また、音を聞くことも音を出すことも両方楽しめる姿もあった。後半道具を鳴らすグループの反対側に静かな空間が出来た。次のグループは車椅子に乗った静かなグループだった。意図してそうなったわけではない。静かに時が流れた。そこに待っていたかのように入ってくる利用者がいた。床に寝そべり、スタッフと包み紙をくしゃくしゃしながら、アルミホイルを頭にかぶせながらそこにある空間に身を委ねていた。マイクを向けると利用者の名前を次々に呼んでいた。支援者の名前も呼んでいた。そうした声に笑顔を見せる利用者がいた。そんな、利用者同士が作る空間。最後は徐々に利用者が部屋から居なくなるのを主催者スタッフは不思議そうに見送っていた。まるで3日間の映画が終わってしまうようであった。

 ワークショップ後の主催者スタッフと支援者の振り返りでは皆今回の体験について上手く言葉が出て来ない様子だった。形の無いワークショップの可能性を皆感じたようだ。自身もそうであり、支援者と利用者という枠を越えたある種の人間の水平性を感じたのだと自分は考えている。