ファーレ立川へパブリックアートを見に行く(2)。 -芸術の社会性について-  

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二度目の来訪であるファーレ立川。前回は街中にアートが存在していること自体が自分の関心の中心であった。立川駅の米軍跡地に建てられた都市計画の中に溶け込むように存在するアート。昨今の地方のビエンナーレなどの芸術祭の先駆けになるパブリックアート。今日は長澤伸穂の作品、トンボヒコーキから見た。街路樹を守るツリーサークル呼ばれる鉄の鋳物には、トンボがヒコーキ(爆撃機)に徐々に変わるアニメーションが円状に記されている。しかし、円環の中でヒコーキ(爆撃機)はトンボにはならない。これは、かつてトンボが飛んでいた立川に日本軍の飛行場が出来て、戦後米軍の基地となった経緯が記されている。私は街路樹の根元に視線を落としながらかつてと今に想いを馳せた。見上げると、立川の今が現れた。

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街中にアートが存在することに慣れた私は、より作品に近づけるようになったような気がした。次に気になったのは、ジョナサン・ボロフスキーのブリーフケースを持つ紳士の大きな像。厚い鉄板で作られていて、細長いその影のような紳士は寄る辺なくそこに立っている。とても静かな印象の作品。足元に数桁の番号が記されている。アノニマスな我々一人一人のポートレートのようでもある。都市という、労働に組み込まれた空間で彼は何を思うのであろうか。そのすぐ近くにアニッシュ・カプーアの山をかたどった鉄の彫刻があった。見る角度によって山の形は無限に変わる。裏側に周って見たが、張りぼての裏側のようで面白かった。実際は大きな自然を様々な角度で示すカプーアの作品。都市の人工性との対比が興味深かった。

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しばらく進むと、ジョセフ・コスースの言葉の作品があった。案内が書いてある地図で追わなければ作品がそこにあることは誰にも分らないであろう。そうした意図も展示プランを担当した北川フラムの狙いであろう。刻印された言葉は石牟礼道子とジェイムス・ジョイスの言葉が横に一直線に並んで続いている。石牟礼道子の、自然には決して到達できない人間の業のような言葉の連なりと、ジェイムス・ジョイスの、読み進めることが出来ない断片としての言葉の連なり。私はその言葉を声に出して読んでみたが、まるで運動のような全身を使った、言葉に於ける思考と行為の終わりの無さに息が上がってしまった。これも美術館ではなく、都市空間の中で作品を見る観客自身が必死に意味を追いかける行為があるからこその体験であったと思う。

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二回目の来訪であったが、まだ見ていない作品が多い。あるいは視界には入っているが、向き合えていない作品が街に点在している。美術館の中ですまして見るのと違う、作品を見ることのライブ感がファーレ立川にはあるのではないだろうか。1994年に設置された作品群は美術館という箱から離れて、現在進行形の都市の中で静かに息づく。芸術鑑賞の主体性が叫ばれる時代にあって、先駆的な例として作品たち自身が静かに時を重ねていく。それらの作品は、作家の存在を離れて芸術の存在自体を在らしめていくのであろう。私は心地良い疲れを感じながら、駅前の雑踏へと戻った。しかしそこで感じた雑多な感覚は、美術館を出た後で感じるのとは全く違う、区切ることの出来ないリアルな感覚だった。