現在のウクライナ絵画 -芸術の社会性について-

 

毎日届くウクライナ侵攻のニュース。報道を見ながら、モヤモヤした思いをする。この戦争ほどメディアの存在を感じる戦争はない。いつの時代も戦争とメディアは互いを必要とするし、自分の意識のせいでもあるとは思うが、変な距離の近さを感じてしまう。それは演出された近さがある。演出された情報。そこをかき分けながら、真実を知ろうとする。

ウクライナの侵攻が始まったのが、2022年2月24日とネット上にある。私がSNSを通じて知ったGRAND ARTISTというコミュニティが紹介するウクライナの芸術を見ながら思ったことを書こうと思う。5枚の絵画をピックアップした。いずれも制作年が2022年とある。ここ最近描いたものだとして、画題がいずれもウクライナの侵攻と無関係ではないと画像を見た私は感じた。というか感じざるを得ないし、報道から見えて来る演出ではない生の声を芸術から感じてみたい気持ちがあった。

1枚目の「避難」とあるユーリー・デニセンコフの絵画。避難するバスが幾重にも重なっている。幽霊のように見える移動手段は、普段我々が使うあのバスではない。薄く塗られた絵の具がその頼りなさを表現している。絵画の持つメッセージ性を強く感じる1枚である。こうした絵画を見る感覚は普段のニュースからは感じられない直接的なものだ。絵画がなんであるかより、心の手紙として見る者に届く。現在起こっている戦争が芸術として同時に配信される時代。

 

 

2枚目はイゴール・ソロドブニコフの「76日目。私の牛」という絵画。野獣派のような色彩と牧歌的な風景にただならぬものを感じる。そこにはモダニズム的な技法よりもメッセージとしての手段を感じる。2022年という時代がそうさせるのか、技法を超えた切実さを画面から感じる。牛を抱く女性。地球を模した大地にカラフルな樹木。樹木はゴッホを感じさせる。せり上がる大地はキュビズムのテーブルのよう。それに比して真ん中の女性と牛は身を寄せ合って縮こまっている。

 

 


3枚目はウラディスラフ・シェレシェフスキーの「水上で煙」という絵画。一見してリヒターの影響を受けて、作品を見る者に客観的に見るよう要求する作品。画面に映るリラックスして座る男性は片手に飲み物を持って戦艦を傍観している。傍観しているのはメディアのこちら側にいる我々なのか。モダニズム絵画がジャーナリスティックに皮肉られている感じがして興味深い。我々見る側の素朴さを告発しているようにも見える。

 

 

 

4枚目は、カテリーナ・コシアネンコによる「静けさ」という絵画。詩情を感じる画風は、夜空だけが青々と輝きそこに佇む人たちを照らしている。夜空の荘厳さと比較した人間の小ささが印象深い。その対比を繋ぐかのような破壊されたアパートメント。アパートメントは夜空を吸って青みがかり、段々灰味を帯びていく。公園に佇む犬や猫は逃げられるのだろうか。横にある車が問いかける。

 

 

 

5枚目は、ヴラド・クリショフスキーの「脱出」という絵画。アウトサイダーアートのような雰囲気の画面に「things that after」と書いてある。「起こった後の何か」とも訳せるが、逃げ惑う幼子と母親が不条理な今をどこに向かえば良いのか思いあぐねているようだ。背後に描かれている赤い風船と糸のようなものはバンスキーの作品を思わせる。

いずれの作品もプロパガンダ戦争画ではなく、市民としての戦争画、また反戦ではなく只中にいる人の叫びが感じられる。そこにはイデオロギー以後の、切なる人の姿が描かれているのではないだろうか。ウクライナは西ヨーロッパと東ヨーロッパのそれぞれの文化を背負いながら我々に何を伝えようとしているのだろうか。