絵画と文化 -芸術の社会性について-

ラスコーの洞窟壁画は有名だ。狩猟の記録なのか、儀式的なものなのか描画の目的は定かではない。しかし動物の姿が生き生きと描かれていたり、洞窟の岩の隆起を利用した立体的な絵を見ていたりすると、何とかしてバイソンやシカの丸味や重み、力強さを表現しようとしたのかが伺われる。また世界にある洞窟壁画には、たくさんの手形絵画が残されている。今でいうステンシルのように、口に顔料を含んでスプレーのように手の跡を岩壁に残している。こうした生きた証を残そうとする姿に表現の原型のようなものを感じざるを得ない。

またオーストラリアの先住民族の樹皮画など、独特の文化伝承形式故の芸術でありオーストラリアの先住民族の生き方と切っても切れない。以前越後妻有トリエンナーレという芸術祭を訪れた際、オーストラリアの先住民族の展示があった。そこではオーストラリアの先住民族の文化を西欧文化であるキャンバス地に描いた作品が並んでいた。何というか、文化が死んでいると感じた。オーストラリアの先住民族の絵画は樹皮の裏にこそ描かれるべきであり、樹皮込みでの絵画なのであろう。それは、冒頭で書いたラスコーなどの洞窟壁画を見てもそう感じた。洞窟の岩肌に向き合い、仕留めた動物たちを思い出しながら描いたであろう状況は彼らの生き方そのものだったはずである。水墨画なども、黒と白の間の濃淡を行き来しながら見えない心の内側を描く東アジアの伝統文化であるのだろう。そこにひと時も留まることのない自然の変化を支持体である紙と交感し、表現していると感じる。そうした風土文化と絵画の関係には必然性がある。

西洋近代は教会の壁画から、産業革命とともにキャンバス地と油絵具を絵画の材料として、市場流通経済に適応していった。絵画の宗教性から離れ市民の生活へと溶け込もうとしていった。西洋近代絵画が流通経済のシンボルでありながら、一方で純粋芸術を芸術家が市民として目指したことも事実である。その中には民主主義への希求や、理想の社会主義をイメージしたものもあった。こうして書いていくと、西欧近現代は概念中心であることが分かる。

私はといえば、画家としてキャンバス地に絵を描くことは何か必然性を感じない。あのキャンバス地に絵の具を塗り込んでいくような感覚が私にはない。あるいは、イーゼルを立てて空中に支持体が浮いているのもリアリティーが無い。もっと直接的に支持体と交感していきたい。それが日本に暮らしていることとどれぐらい関係があるのかは分からない。しかし、絵画が概念として存在しているよりももっと直接的に生きた日常空間に存在して欲しいと考えている。こうした、人が生きている場所で発生している文化と絵画は切っても切れない関係であると言えないだろうか。現在のポストグローバル社会の中で、絵画はどんな存在なのであろうか。

絵を描くことは現代に於いてはとても個人的な物事とも言える。何故なら絵を描かなくてもほとんどの人々は暮らしている訳だし、生きていることと直結していない。そこにきっと絵を見る人は、必然性を感じるべく作家の個人的なこだわりや物語を探すことが逆説的に絵画の存在理由になっているのかも知れない。何故彼は彼女は絵を描くのだろうと。きっと理由や意味があるはずだと考えている。何故なら本物そっくりな絵なら写真で良いと思っているから。そうした絵画の存在理由を個人の物語として社会は求めているのかも知れない。