文字は情報を運ぶための”モノ”である

 先日、「世界の文字の物語」という展覧会を池袋サンシャイン近くにあるオリエント博物館に訪ねた。文字の展覧会とはどういうものなのだろうかというのが、行くきっかけとなった。入場料を払って中へ入ると、ヒエログラフのハンコが用意されていて、自分の名前をヒエログラフで印字出来るというものがあった。面白そうだと思い、やってみた。すると、「おおかわゆう」の「お」と「う」は同じ記号だった。これでは「ううかわゆお」とも読めてしまうなどと面白がりながら、言葉の音とイメージの違いを楽しめたので、面白そうな展覧会に違いないと心弾ませた。
展覧会入り口に「なぜ文字は生まれたのか」というものがあった。興味深かったので引用する。

“文字はいわば、形を持たない言葉を具象化したコミュニケーションのための道具である。文字の発明によって別の場所、別の時間に正確なメッセージを、しかも膨大な量を伝達することが可能になった。(途中略)
多くの人間を支配し、管理する社会、つまり都市や国家といった組織や体制が始まったことと深い関係がありそうだ“

 なるほど、文字は道具、機能的なモノであるのだ。これには何だか頭をガ−ンと殴られたような衝撃があった。自分の感覚では文字はもっと観念的なものというイメージがあり、モノとは反対のイメージがあった。確かに何かを記録して保存、または伝達する場合はその情報が劣化せず、誰かに伝えなければならない。
 文字の起源に携わったメソポタミア文明エジプト文明。文字の起源と文明の起源は軸を同じくしていると言われている。また、紙の起源のパピルスは紀元前5000年と言われているが、現在の紙のイメージとは違うようだ。最初、文字が発明される前にトークンというモノを数える道具があった。土を練って固めたもので、ウシ、ヒツジ、パン、羊毛などを形の違いで示したものである。これは穀物や家畜の出納に使用されていたとされる。後に都市文明が起こり、交易が盛んになり行政がそれらを管理するようになった時、原楔形文字が発明される。
私は文字の起源やその文字の歴史にももちろん興味を持ったが、驚いたのはその文明が起こった場所性だ。土が豊富にあった西アジアで安くて簡単に手に入ってしかも保存に優れている粘土は文字の起源に深く関っている。それは、文字だけが存在しているのではなく、文字を記すための文字盤である媒体の存在が必要なことだ。今でこそ、紙、プラスチック、土、石、鉄、布、インターネット、その他ありとあらゆる、文字を伝えるための媒体は存在している。そして、媒体による情報の差異が現在問題にもなっている。
 もちろん文字記号自体による識字性の問題もあるが、いずれにせよ何らかの媒体が介在していることには間違いない。楔形文字は何と3000年続いたという。しかし、より合理的なアルファベットや、中国文化による紙の発明と漢字の発明があった。
私は文字が人々の間を繋いできた膨大な時間に圧倒された。何千年という時の中で人から人へ情報を運ぶ“モノ”としての文字。時として文字は芸術まで高められ、表現の手段にもなった。展覧会の最後の方では、様々な国で発行された現在の印刷物が展示されていた。その、楔形文字を刻んだ粘土板から印刷物までの時間に思いを馳せた。
と、ここからが我々の時代、インターネットの時代に入っていくわけである。展覧会ではそこまでは展開しておらず、そこは宿題として考えねばならないなと思った。
 文字が情報を運ぶ”モノ“という認識は果たして我々の意識を何らか変えることが出来るのであろうか。政治の世界でも、ビジネスの世界でも、他の様々な世界でも文字は情報を共有するために役立つものでありながら、一方で情報を流す側の支配的な論理も批判的に見なければならない。情報統制は文字通り、文字媒体の管理である。昔も今もそれは変わらない。流通しては困る情報は管理されてしまう。また一方で、人の心理を操るためにわざとリークされる情報も文字によって流布する。そういう時代に生きているという自覚から始めることが大切だということになるであろうか。


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