建築と絵画 -芸術の社会性について-

                  

先日、自宅の日本間に自身の絵画作品を飾った。その時、絵画の外側である本来壁と認識されるはずの壁が消えてしまったように見えた。畳に正座しながら辺りを見回して、日本間にある空間の一体性に改めて驚いた。隣にある洋間にいつも絵画作品を飾っているのだが、壁の見え方の違いに建築文化の違いを感じることとなった。日本間では、洋間のような壁概念は無い。床と壁と天井は一体化した一つの空間であり、かつ外の景色とも繋がっていく。洋間は壁、床、天井それぞれに独立した概念であり、また窓は外界を覗く穴である。それは、洋間にあるフローリング床と日本間の畳の違いにも表れている。畳は家具の一部だとの認識はあったが、壁との関係や空間として人がどう住まうのかについては漠然とした感覚しかなかった。

現代の日本は近代化され、西洋化し、自動車を乗り回し...変わったと思っているのだが、無意識レベルの文化は変わっていないに違いない。それは生き方だったり、考え方にも表れる。私は美術を考える、あるいは制作する時襖絵や屏風絵、掛け軸の飾られ方や鑑賞のされ方がいつも頭にある。建具の一部として存在するそれらの美術品は常に空間的である。一方でヨーロッパの美術は壁画として生まれ、キャンバスが支持体となった今も未だに壁画であろうとする。明治に「油絵」として「洋画」として文化輸入された西洋美術は建築の西洋化と並行して展開して来たが、けっして壁画であろうとしたことはなかったであろう。また西洋美術史の流れの中で、キャンバス絵画を疑問視してあらゆる支持体(絵の具を載せる媒体)が試されるが壁画自体を否定することは主流としては無かった。

昨今のポストグローバル社会の中で改めて浮かび上がるローカルとグローバルの問題。インターネット社会が生み出す、グローバル空間とローカル空間の中でこの問題を考えてみる。何故自分が日本間に飾った自身の絵画作品の飾られ方の変化に気が付いたかと言えば、インスタグラムをやっていたからだった。インスタグラムに載せる作品画像を撮って投稿を重ねている内に、ヨーロッパの作家たちが自身のアトリエやリビングに飾る作品画像を多く見るにつけ自身の感覚と違うことに気が付いた。その違和感を確認するために日本間に絵画作品を飾って、正座しながら作品を眺めた時に気が付いたのである。

 

話を建築と絵画という概念に沿って考えた時、参考として考えるのはヨーロッパ文化だと修道院の壁画や天井画である。また日本文化だと寺院に飾られる襖絵や屏風絵である。いずれも宗教建築である。そうした建築は非日常的な場所であり、所謂住まいでは無い。しかし、その土地で暮らす人々の生き方が象徴された空間である。ヨーロッパで生まれたモダニズムは宗教を否定し、理想的な個人概念を目指してきた。日本文化や他の非ヨーロッパ文化もモダニズムに追従した。しかし、その理想的な個人概念が肥大した自我にとって代わることに気付いたヨーロッパ文化は人々の多様性に舵を切ることとなる。ここで私の頭にあるのは、過去の文化に復古的になることではない。現代の複雑に絡み合った多様な社会に沿った建築と絵画の関係を考えてみたかったのである。

それには足元の自身の暮らしから始めるよりは無い。空論で比較文化を論じても現代には通用しない。私は自身の感覚から、洋間で主に日中暮らす自分と床で寝る日本間を行き来しながら壁とは何か、床とは何か、そこから美術や芸術を考えてみたかったのである。