絵画と写真の違い ―芸術の社会性について-

 

 


ある画廊で、絵画と写真の違いの話になった。自分も漠然とは両者の違いについて考えていたものの、確信のある言葉になってはいなかったので考えてみようと思う。歴史的には肖像画など絵画が社会に対して担っていた仕事を写真が代わって行うようになった事実がある。そうした人の営みの記録としての側面は共通した役割があった。絵画は写真の登場により、中産階級が自宅に飾る田園などの風景画を制作するようになる。そこに近代絵画としての印象派が始まっていく。写真も芸術の手段となっていき、マン・レイ(1890-1976)などの登場により芸術に特化した個人の表現手段になる。

 

    


               

私の狭い見識の中で知っている写真家の写真、画家の絵画を比べながら、少しでも絵画と写真の本質を探っていきたい。写真から考えていく。先ずはエドワード・マイブリッジ(1830-1904)。馬が走る連続写真が有名だ。馬が走っている時、前後の足が地面から離れているのは肉眼では見えないが、写真では捉えることが出来た。その他にも様々な動きの写真を残している。次はアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)。ドキュメントとしての側面よりもより芸術性の高い、より絵画的な写真が初期の作品であった。また画家ジョージア・オキーフの肖像を沢山残したが、記録としての側面よりも主観的に対象物と向き合う写真の可能性をそこで示した。モホリ=ナギ(1895-1946)は画家であったが写真家と結婚することで、フォトグラムなどカメラを使わない感光紙で制作する実験的な作品に取り組み、ロシア構成主義に端を発したような空間の入り組んだ迷路のような不思議な写真がある。ナギの写真を見ていると、絵画と写真の区別が付かなくなってくるのが分かる。

 

          

 

またアウグスト・ザンダー(1876-1964)はドイツの様々な階級や民族、職業の人たちの肖像をありのままに写し取るプロジェクトに生涯取り組んだ。これは、金銭と引き換えの職業的な肖像写真では出来ない、奇跡のような記録である。アンリ・カルティエ・ブレッソン(1908-2004)は決定的瞬間と呼ばれる、主に人物の動きを捉えた「その時」を写真として納めている。これはカメラのシャッターを押す瞬間があるからこそ出来る表現でもある。絵画は、描くという時間があるため制作速度という点で二者は大きく違う。ここまで書いてきて、写真には記録という社会的な客観的側面がある一方で、写真家の主観が作り出す造形美があると思われる。これは建築などでも言われる機能主義と造形主義の関係に近い。

 

    

 


次に絵画について考えていく。写真が普及した近代から出発しよう。そこから絵画と写真はお互いを気にしていくからだ。上述したように印象派から始まる近代絵画は風景画の登場により肖像画の権威性ではなく、画家個人の主観の表現に代わっていく。そこでは主題の具象性と画家の主観が作り出す抽象性が絡み合っていく。近代絵画の父と呼ばれたポール・セザンヌ(1839-1906)は肖像や風景、静物といった伝統的な主題を描いたが、肖像画では人格描写を行わずに人形のように描いていると非難を浴びた。人も自然もあるがままに在るという哲学的な姿勢は当時受け入れられなかった。セザンヌの影響から始まったキュビズム創設者であるパブロ・ピカソ(1881-1973)は生涯具象絵画から離れなかった。抽象絵画は、彼にとって絵画のテーマを一つ省略していることだと語っていた。キュビズムは様々な芸術家に影響を与えた。ピエト・モンドリアン(1872-1944)もその一人で、初期は自然の風景を主に描いていたが次第に画題の抽象化が進み、色彩と線だけの抽象絵画に生涯取り組んでいく。その後絵画はミヒャエル・ボレマンス(1963-)のように一旦具象性を取り戻しているが、画家の想像性が主眼であるなど目の前の世界を描く従来の具象画とは大きく異なっている。

 

 

ここまで書いてきて、絵画と写真という芸術の社会性を考えた時思い浮かぶのは画家や写真家の主観と作品を見る側の客観の問題がある。図像としての記号性、何が撮られているか、何が描かれているかという作品を見る側の問題、表現者として主観をどう表現するのかの問題が写真と絵画両方にまたがっている。しかし現実の世界を撮る写真と、支持体に画家のフィクションを構成していく絵画はやはり出発点が違う。細密な肖像画であってもそれは画家の手と目によるものだ。以前、写真家の眼差しと画家の眼差しを比べたが、写真家の眼差しはカメラのレンズのように世界を見ようとしている。画家の眼差しは身体の内側から世界を覗いている。結局あまりすっきりした結論には至らないようである。また考えていきたい。