絵画と光 ―芸術の社会性について-

                  

 

今回は、絵画と光について書きたい。絵画の歴史はヨーロッパではキリスト教の宗教画がありその後、風俗画(ブルジョアジーの趣味)として風景画や室内画が生まれた。オランダのフェルメールデンマークハンマースホイの室内画は有名である。市民の日常風景を画題とした風俗画に如何に画家は自らの制作意図を込めたのだろうか。まず室内画から少し考えていきたい。

有名なフェルメールだが、良く見ると不思議な絵である。室内で過ごしている人物は必ず何かを見ている。何かしているというよりは何かを見ていることが強調されている。こちらを見ている人物もいる。観客が絵を見ていることを知っているかのようでもある。室内に差し込む光。これもあらゆるものに光が降り注いでいることがわざわざ説明されているかのように光の当たる様子が描かれている。また室内には絵が飾られているが、絵を見る我々の視点を暗示しているようである。実際、絵を外側から覗いているような作品がある。絵を見ること、あるいは「見ることを見る」作品といえようか。ハンマースホイはどうであろうか。柔らかな光が印象的なハンマースホイだが、それとは対照的に静謐な室内は不在を表現しているかのようである。開いたドアもただの空間であることを物語ろうとしている。同時代の他の室内画は、閉じた安心感がある。窓からの光も家具やその他が受け止めている。ハンマースホイの室内画は光や風が通り抜けてしまいそうだ。

 

時代は巡ってマチスの窓のある室内画だ。マチスもいくつもの室内画を描いている。特に窓に特化した作品がいくつかある。マチスの場合、外の世界と内の室内が繋がって描かれている印象がある。室内も室外も装飾化され、色彩化されている。寧ろテーマは絵画としての色彩を光として表現したかったのだろうと思う。同時代のアメリカの画家エドワード・ホッパーの絵画はどうか。室内画に限らず、風景画も多く残している。光が差している様子が描かれている印象が強いホッパー。光が壁に当たっていたり、家全体に当たっていたり。その光と対照的に描かれる日常の孤独をまとった人々。外を眺めて居たり、一人佇んでいたり。ホッパーの絵画を見ていると、自身の孤独が癒されるようだ。ホッパーの室内画の室外の描き方も独特である。室内と反対にどこまでも広がる自然。そして人々に平等に降り注ぐ光は、影としての人の内面を静かに見守っている。

 

       

 

今までは主に絵画と光を室内画などの具象画で見てきたが、アメリカの抽象画ではどうであろうか。正方形の矩形をテーマとしてきたアグネス・マーティン。グリッドと呼ばれる格子やストライプを繰り返す絵画は定規を使って静かに描かれる。薄く溶かれたアクリル絵の具と静かに引いた鉛筆の線を使った柔らかな光を思わせる作品。その光は外からの光というよりは、人の内にある光といった印象である。マチスの色彩を光と解釈したことをもう一歩進めた感覚がある。そこには穏やかさが希求されている。絵画を描く画家の心が作品となったと言える。次にエルズワース・ケリー。ケリーの絵画は窓の作品から始まっている。その窓の作品は室内からの窓というよりも外から見た窓そのものを表しているようだ。ケリーの作品も色彩を光と解釈している印象がある。絵画の形は幾何学的でもテーマは自然に根差している。ケリーの光はマーティンの光と違って外光を表す。また、ケリーのモチーフはその作品の輪郭線にある。幾何学的な平面の輪郭線が隣り合う色面との間に光を作り出す。時にはその単色の平面の輪郭線は展示空間の白い壁と隣り合い、展示空間が絵画となっていく。

 

    

 

ここまで幾つか絵画と光の関係を見て来た。絵画と光の関係は一様では無く、様々な解釈が画家によってなされていることが分かった。私は書くことの実験として、絵画と光をテーマとして書くことの社会性はどこにあるのか考えながら書こうとした。しかしというか、絵画と光をテーマとすることに社会性があることに気が付いた。絵画と光をテーマとすることは絵画とは何かということと、向き合うことであり、そこに見えない社会性が生まれるのではないだろうか。