「何故これが芸術なのか?」-マルセル・デュシャン-

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何故これが芸術なのか?という言葉を時々見かける。何故?の裏には「これが芸術である」という漠然とした了解が存在している。それは今まで見慣れて来た「何か」であり、作品を見る人を脅かさない安心がそこにあるからだろう。それは美しさであったり、狂気であったり、自由な雰囲気かもしれない。

何故これが芸術なのか?という話題の筆頭に上がるのがマルセル・デュシャンの「泉」というタイトルの男性用小便器を逆さにしてR.Muttという作家名で制作した作品(所謂レディメイド作品)である。デュシャンは最初からこうした反芸術的な作品を志向していたわけでは無かった。普通にキャンバスに油絵の具で絵画(納得していたかは別として)を描いていた。しかし当時流行していたキュビズムに影響されて自身の作品が変化していく。キュビズムパブロ・ピカソとジョルジョ・ブラックが提唱した新しい絵画の描き方、考え方である。キュビズムは画家の立っている一点からではなく、多視点で対象を捉えようとしたもの。その多視点への画家それぞれのアプローチの違いが後の現代美術の主流となっていく。また意外と忘れられているのが、デュシャンはチェスプレイヤーでもあったこと。デュシャンは作品制作の中で自身の日常でもありプライベートなチェスをモチーフに絵画制作をするようになる。チェスゲームをする時の思考と、キュビズムのアイデアの中の一つにある「画家の思考」を表現する方法にデュシャンは何かのヒントを得たのかもしれない。

チェスゲームの駒の中にナイトという馬をかたどったものがある。デュシャンはナイトのチェスゲームに於ける動きに注目していた。ナイトは自分の味方の駒を飛び越えて相手の陣地に忍び寄る。この相手とのゲーム性をデュシャンは楽しんでいたようである。芸術にゲーム性を持ち込むことは歴史的に過去にも暗喩としては表現されてはいたが、正面から作品のコンセプトとして制作している作家はデュシャンが最初であると思われる。

デュシャンは筆で描く絵画を放棄して、定規を使って作品制作をしていく時期があった。また建築家が図面を書くように絵を描いた。ここにもキュビズムの影響があり、建築図面などで使われる正面図、平面図、立面図など多方向から物事を捉える制作方法を模索していく。更にキュビズムの後に起こったダダイズムとシュールリアリズムに端を発する身の回りにある反芸術的な日用品を非日常化(所謂オブジェ)していく考え方にも影響を受けた。そうした中から生まれた作品の一つが「泉」という作品である。「泉」にはモチーフがあり、アングルという画家の有名な作品をもじっている。若い裸の女性が水の入った瓶を逆さにして立っている油彩画である。ここでハッと思った。瓶を逆さまにしている?デュシャンは男性用小便器を逆さまにしている!しかも女性の瓶から流れる水と男性が立って用をたす様が自分の頭の中で繫がって来た!!!うーん、これは!!!

ここからは想像だが、デュシャンはローズ・セラヴィ(ローズは一般的な女性名詞、セラヴィはフランス語の「これが人生さ」他にも様々な解釈が存在する)という架空の女性に扮する作品も発表するなどジェンダーに対する思考も表現している。改めてデュシャンの思考の多様性には驚かされる。そしてデュシャンのことを書きながら頭が段々こんがらがって来たが、それこそがデュシャンの表現したかったことなのかもしれない。不思議の国のアリスルイス・キャロルが言葉遊びに興じるキャラクターを沢山登場させて読んでいる読者を不思議な気持ちにさせるのと似ているのかもしれない。沢山デュシャンのことを考えたら少し心が軽くなって来たような気がする。