人生というゲームを感じさせる絵画、そして画家山田正亮について

 少し前になるが、両国にあるArt Trace Galleryにおいて行われた画家山田正亮に関するレクチャーに参加して感じたことを書いておきたい。山田正亮(1930-2010)は哲学的で自己言及的な態度で絵を描く画家である。難解である一方、明快で率直な画風が受け入れられた。山田正亮(やまだまさあき)の作品は以前まだ御存命の時府中市美術館(2005)で行われた回顧展で実物を見ていた。その時の展示は山田正亮が美術市場で売れ出した時の大きな作品は無く、セザンヌに影響された初期の[Still Life]から始まって[Work]と呼ばれる抽象画へと到るプロセスを見せ、展示の最後が最晩年の[Color]で締めくくるというものだった。確か展覧会図録には最晩年の[Color]のキャンバスのサイズが人間の身長ぐらいであることに触れていたことが印象に残っていた。
 さて話は山田正亮のレクチャーの内容になっていく。そのレクチャーは今度行われる没後の山田正亮の展覧会を踏まえながら山田正亮の画業に迫る研究報告の様相を呈していた。没後家族の了解を得ながら膨大な作品をアトリエに訪ね、残っていたこれまた膨大な制作ノートの量に向き合いつつ、いったい山田正亮の作品とは何だったのかを見極めていく過程をレクチャーに参加している我々に公開してくれた。その中で、実際山田正亮の作品でどれが優れた作品なのかという話になった。これは有名な画家に対してどういうことだろうと思った。しかし山田正亮の画業に触れていくにつれて、山田正亮の作品が所謂求むべきイメージを追い求めて描いているのとは違うベクトルで行われていることを、研究している学芸員などが感じていることを指していた。違う言い方をすれば音楽で言う変奏のような、同じ主題のもとに画家が永遠と一枚の絵を異なった方法でひたすら描いているという意味合いなのであった。実際に学芸員が見せてくれた、生涯で描いたキャンバスを山田正亮のアトリエで記録した写真のスライドが、アニメーションのパラパラ漫画のように一枚の絵が動いていく様に見て取れた。これには驚いた。また、山田正亮は画家として売れ出してから作品が駄目になったのではないかという指摘が会場でなされた。これには理由として山田正亮が以前は内在的論理で絵画を描いていたのに売れ始めると大きな絵を描き出したりして、市場が求める外在的論理を基に描き始めたのが理由ではないかという話になった。これは画家に限らず自分の才能を売り物にしていく仕事に見られる傾向だと聞きながら思った。
 話は府中市美術館(2005)で最後に展示されていた[Color]の話になった。この最晩年の作品に会場から非難の声が上がった。それまで山田正亮は色彩の差異で絵画を構成していたがこのシリーズはほぼ単色で描かれていて、平べったく今までの方法論を捨てているように感じられた。私は会場の空気に飲まれ、山田正亮は[Color]で自らの絵画作品に死を与えたのだと思った。何てドラマチックなのだろうとも思った。初期は自分の内在的論理で描き、売れ出してから社会性を身に付け、最晩年で自らの作品を否定する、と。しかし、このレクチャーは独特の空気に包まれていた。山田正亮を非難しながらも誰も納得のいかない様子が感じられ、私自身も悶々とした気持ちで1週間ぐらいを過ごした。
 そして今この原稿を書きながら、[Color]をもう一度見ておこうと以前見た展覧会の図録を改めて見直した。それは全く別次元の作品であった。これは所謂絵画ではなかったのである。この紙面では書ききれないが、それぐらい安心して見ていられないおぞましい作品である。いや偉大な作品である。それは反絵画ではなく、非絵画である。
 私は今回この原稿で、山田正亮のレクチャーについて書くつもりでいた。今もそのつもりだが、私の心が[Color]を見直した途端山田正亮の画業を最初から見直さなければならないことに気が付いた。多少触れない訳にはいかないが、今後また機会を作って丁寧に考えたいと思う。
 作品[Color]についてまず言えることは絵画を否定しているように見えることだ。それは[Color]という作品が一見ほぼ単色に塗られた画面に見えるのだが、画面の端の部分を良く見ると下に塗ってある色が透けて見えることと関係がある。これは絵画の構造の問題であるのだが、これがもし端まで同じ色に塗られていると自然に絵画の奥行きというものが自然発生する。絵画を見ている鑑賞者は奥行きを感じることで非日常を感じて感情移入することが出来る。しかし[Color]は画面の端が欠けておりさらに色彩が施されているので微妙なイリュージョンをそこに感じてしまう。言い方を変えると鑑賞者が通常慣れ親しんでいる絵画の奥行きをベースにしたイリュージョンをはぐらかし、否定しつつ肯定もしているので見る態度に戸惑いを感じてしまうのである。その戸惑いを鑑賞者は引き受けざるを得ない。その戸惑いと現前の茫洋とした単色の画家の手で塗り込められた画面と向き合わざるを得ない。なんだか意地悪な絵だなと思う向きもあるかと思う。しかし非常に計算された縦横の比率の平面には何かを感じずにはいられない。それが私には絵画と人生の関係を想起させてしまうのである。上手く言えないが、画家が絵を描くということの社会性とは何かを山田正亮は問い続けたのではないかと私は考えているのである。