ストリートアートとは何か ―芸術の社会性について-

 

 

 

前回建築と絵画について書いた。ぼんやり壁のことを考えていたら、壁画から落書きへとイメージが進んだ。落書きと言えば、90年代自分がニューヨークへ遊学した時は既に落書き(グラフィティ)は芸術と認識された後で治安も回復していた。ストリート文化も成りを潜め、綺麗な澄ました町へと変わっていた。もちろん一部では銃声が聞こえていたりもしたが。時代的には80年代から90年代で、若者文化が社会を変えた、あるいは変えようとした。

今自分の頭の中には、バンクシーバスキアとキースへリングとニューヨークの落書きがある。4者を並べて見比べて何が見えて来るのだろう。一つはその社会性だろう。社会にむき出しになっている壁に対して何らかのメッセージが見える。落書きは犯罪だが、その潜在的な心理は人の無意識を反映したものだ。芸術は良くも悪くも真実を求める。芸術は安全な場所で行われる危険なことであると、環境音楽家のブライアン・イーノが語ったと記憶している。

 

外壁は社会に開かれている。誰もが見る可能性がある。その社会性が彼らを表現へと向かわせるのだろう。改めて一人一人の作品を見ていく。先ずジャン・ミシェル・バスキア。画像でしか確認出来ないが、80年代当時は壁への落書きやTシャツ、アートポストカードなどを制作しながらアンディ・ウォホールに才能を認められて現代アーティストとしてキャンバス絵画を多数残す。黒人としてのアイデンティティを表現しながら、解剖図に影響されて制作したドローイング(線描)技法は普遍的な人類への希求を感じる。大きなキャンバスにフラットに描かれた文字や絵は全てが平等に存在することを表現しているかのようである。

次にキース・へリングバスキアと同じくアメリカ人で80年代に活躍した。バスキアよりも日本では早く紹介されて人気があった。作品を見ていくと、特定できない誰か(人間)が何かを訴えている。イラストタッチな同じ太さの線描で描かれた数々の人間や犬は、我々の身近な何かであり、苦しみ、楽しむ日常である。バスキアにしてもキースへリングにしても、メッセージが普遍性を意識したものであることが印象に残る。アートというと、個性を発揮した唯一無二のものと思いがちだ。もちろん、バスキアやキースへリングのオリジナリティを批判したいわけではない。「落書き性」とも言える一見自己顕示に見える表現が普遍性を内包している可能性を考えてみたいと言っているのである。また同時代のグラフィティ(落書き)アート。地下鉄の落書きは犯罪の温床ともなった。80年代のニューヨークは治安も悪かったが、様々なストリート文化が生まれた時代でもあった。音楽ではストリートからヒップホップが生まれ、美術ではロバート・メイプルソープの写真による性の解放など自分たちの身の回りを表現した時代でもあった。

 



そして現代。バンクシー。既に有名な社会派の覆面アーティストだが、作家本人は90年代から活躍したマッシブアタックという音楽グループの一人であるとイギリスでは報道されている。バンクシーの作品は最も壁を意識した作品でもある。ステンシル技法で、陰影を駆使してドラマチックに社会風刺画を制作。素性を明かさず社会風刺を重ねる制作スタンスは、やはりオリジナリティの表現ではない社会性がグラフィティ(落書き)アートを示していると思われる。私は落書きを推奨している訳ではない。教会の壁画から落書きへとイメージが進みながら、80年代以降のグラフィティアートやストリートアートが持つ社会性を今一度考えて見たかったのである。