ファーレ立川へパブリックアートを見に行く -芸術の社会性について-

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ファーレ立川パブリックアートを見に行って来た。ファーレ立川は1994年に米軍跡地に建てられた立川駅前の計画都市である。その中に屋外展示された作品が街の機能を併せ持ちながら、溶け込むように存在している。立川駅から降りると、空中遊歩道が街の真ん中へと案内してくれる。ビルの隙間を縫うようにして、街を立体的に見つつ、自動車の往来を避けて目的地ファーレ立川へと行ける。

先ず目にしたのは伊藤誠の黄色い鉄の彫刻であった。作品名のプレートも無く、作家名も分からない。確かに街に溶け込むというコンセプトは分かるが、汚れたままになっている作品の表面を見ると、少し残念な気持ちになった。街にいる人は、作品に気付かないかもしれない。次に目にしたゲオルギー・チャプカノフの鉄の動物彫刻も、さりげなく道路わきに飾られていた。しかし目を転じれば、本当の動物が休息しているようにも見える。こうした試みは、プロジェクト発案者の北川フラムによるもの。ここで難しいのは、プロジェクトの意図と作品のバランス。多分プロジェクトの意図(街に溶け込むアート)を、作品そのものより優先させたことが時間と共に段々と分かって来た。しかしこうしたデザイン的なアプローチはいつもアート自身にとっては危険と隣り合わせである。その危険も含めて楽しむことが、作品を依頼されたアーティストにとっての課題だったのかもしれない。

個々の作家の街へのアプローチがそのまま作品になっているため、パブリックアートというジャンルとして見ることで観客は鑑賞を楽しめる。印象に残った作品を紹介していく。街の中ほどにある、大きな赤い植木鉢の作品。ジャン・ピエール・レイノーが制作していて、ビルの脇の空間を上手く使っている。街の大きさの裏にある人間の小ささ。それに対して人間の日常にある身近な楽しみとしての植木鉢。こうしたスケールの対比がユーモアとして表現されているように見える。また、ニキ・ド・サンファーレのベンチの作品。明るい色彩のニキ・ド・サンファーレの彫刻は、街の大きさ(強さ)とは真逆の繊細な表面で覆われていた。いつも感じる彼女の彫刻のパワフルなイメージと違ったのが印象的だった。

残念だったのは、日本の作家の中に街のスケールに対するアプローチが無い作品が多くあり、これは日本の現代アート全般に言える。これは、自身のアートの外側である社会に対しての関心が少ないことが一つの原因かと思われる。作品の中だけの世界で完結している作品は、スケール感が内包されていないために、街の中にあるととても弱く感じられる。道路わきにある、道路と歩道の境界にあるサインとして存在している作品を幾つか見たが、デザイン的に見えてしまう。アートとして存在させるためには場所との関係が無いと成立しない。またパブリックアートとして彫刻的な作品が多くある中で、彦坂尚嘉のレリーフ作品がビルの前の建造物に腰掛けるように存在していた。街中に絵画が突然現れたかのような作品で、じっと見ると荒々しく塗られているタッチと遠くから見える美しさの対比が印象深かった。

最後に、今回見ることを楽しみにしていたドナルド・ジャッドの作品を見た。ドナルド・ジャッドの作品は、晩年入院中のベッドのスケッチから起こしたもの。遺作になる。私はパブリックアートの切り口を別の形で追及していたドナルド・ジャッドはどんなアプローチをしているのか良く見た。横に長い作品全体を見るには何メートルも下がらなければいけない。それでも全体が見えないように出来ているドナルド・ジャッドの作品は、街のスケールを超えているように感じた。また、ドナルド・ジャッドという固有名も消えて、アート自身がそこに存在している。その存在感の強さが、とても独特に感じられた。作品の外側にある空間と共にありながら、個としての存在はきちんとあった。まだ見ていない作品も多くあり、また訪れたいと思う。