環境と作品 -芸術の社会性について-

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 環境について社会が関心を持つようになって久しいが、環境と芸術の関係はどうなっているのだろうか。作品から考えてみる。環境芸術という概念を持った作品が60年代末にアメリカ中心に主に彫刻という形で現れた。その先駆者には機械文明を環境と捉えてアイロニカルに表現したスイスのジャン・ティンゲリーのキネティックアートや、アースワークと呼ばれるロバート・スミッソンのようなスケールの大きい自然環境を造形化したものがある。他にもアンディ・ゴールズワージーのように、自然の中で自然と関係を持つこと自体を作品化し、空中に乾いた泥土を投げ上げる行為を作品にしているものなどがある。それらの環境的作品は、観客の意識を芸術家の内面では無く、外側の世界へと向ける傾向がある。芸術家は元来、世界と人間の媒介者として古今から存在しているが、そうしたシャーマンとしての役割が人間の内面を映す存在から外面を映す存在へと変化していったのかもしれない。

 以前取り上げたロイス・ワインバーガーという芸術家は、自らをグリーンマンと名付けて正にシャーマンとして詩的に、また政治的に芸術と自然の関係について根本的に問い直した。ここまで書いて来て今まで上げて来た芸術作品に共通するのは、何か中心を持った造形ではなく周りとの関係の中で成立していく芸術行為だということである。キャンバス絵画という欧米文化が開発した自らを映す鏡としての造形ではなく、観客と芸術家が共有する場自体を作品としていくのである。また美術史として前回取り上げたコンセプチュアルアートも、大きな意味で言語(概念)という“環境”を問い直しているが故に社会性を持った広がりのある作品形式となっている。

 もう一度一般論としての環境という言葉について考えてみる。地球という環境を人間との関係で考えるようになったのは経済一辺倒で、地球を資材としてしか今まで考えて来なかった人間のエゴイズムへの反省がある。有限である環境に対して地球への人間の侵略を意識した現在、我々芸術は何をすべきなのであろうか。芸術の自律性を謳ったモダンアートは歴史の途中で挫折している。近代以降宗教芸術という権威から離れ、ヒューマニズムという人間中心の理想概念が、限界に来てしまっている。イギリスのテートモダンで発表したオラファー・エリアソンの「沈まぬ太陽」はそうした人間の自然へのエゴイズムを見事に表している。環境哲学者であるティモシ―・モートンは、哲学にとって社会のネガティブなことをあげつらうだけの仕事はナンセンスだと語っている。一見楽観的とも取れる、一日を穏やかに暮らそうとする瞑想的なティモシ―の発言は、お互いを攻撃することで安心する我々現代社会への反省とも取れる。インターネット社会である我々の環境は最早他者が見え辛くなって来て、人間のエゴイズムを加速させてしまっている。これは、先の環境問題を長い人類史の中で作って来た我々人間のエゴイズムの最終課題なのかとも思えて来る。先日オラファー・エリアソンとティモシ―・モートンの対談動画を見たが、一種の「優しさ」が漂っていることが際立っていた。オラファー・エリアソンが語るinvite(招待する)やopenness(開かれていること)やnowness(現在的)は芸術家という中心ではなく、芸術作品に接した様々な多様な観客がそれぞれに作り出すイメージが社会や日常に戻ってどんな変化をもたらすのかということなのである。環境と芸術作品とは、「私と周り」を問い直す媒介ということになるのだろうか。