ボイス+パレルモ展 -芸術の社会性について-

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ボイス+パレルモ展に行って来た。ボイスとはヨゼフ・ボイスのことである。「人は誰もが芸術家である」と現実の民主主義社会を社会彫刻に見立て、芸術概念の拡張を問うたドイツの芸術家である。パレルモとは、ブリンキー・パレルモである。ボイスの芸術アカデミーの学生でボイスの愛弟子であった。パレルモは若くして亡くなっており、作品点数も少ないがそのシンプルな造形と、ボイスの一見複雑に見える作品世界との共通点を探ろうと今回訪ねた。

展覧会は埼玉県立近代美術館で行われていた。会場を入ってすぐにボイスの動物をモチーフにした作品群が目に入った。ボイスは、作品を見る観客を前提に制作する人なのだと改めて思った。その理由は、身近な素材を用いりながら世界を神話的に捉えさせて、我々の今生きている現実を相対的に皆に考えさせる。モチーフの動物は鹿、ウサギなどである。またフェルトや、脂肪、そり、電球など。これらのモチーフは、ボイスの世界にとって生命の営みを象徴するものである。動物と人間の関係、そこにある生の営み。先の「誰もが芸術家である」とはボイスが「私はこう考えるけど、君はどう?」「君ならどう考える?」と問われているという意味でもあるだろう。また、繰り返し使われる限定した色使いがある。血を連想させる赤茶色がボイスカラーであり、また良く使う素材のフェルトの鼠色。会場にはフェルトのスーツや、グルグル巻きのフェルトの壁作品があった。また、ジョッキー帽に詰め込まれた脂肪や、レモンに黄色い電球がくっついた作品など。それらは、色彩というよりは固有色を明示している。ボイスにとっての生命(エネルギー)の色なのだろう。生命という現象を作品というモノを介在して人々に生きることそのものを問いかける。

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対してパレルモの作品。所謂ミニマルな抽象絵画。シンプルで無駄がそぎ落とされた作品。今回展示の工夫として興味深かったのは、作品のキャプションに作家名が書いていないことである。最初にボイスの作品が現れて、次の部屋にパレルモの作品があるのだが、習慣で作品キャプションに作家名を探すが無い。よく見るとボイスのB、パレルモのPが示されて作家が分かる仕掛けになっていた。これは二人の作品に共有されているテーマを、観客自身が探していくという展示側の意図によるものだと考えた。また、パレルモの作品はあまり日本では知られていないので、展示のバランスも興味を引いた。ボイスは有名であるが、控えめに展示されていて、寧ろパレルモがメインではないかと思わせた。

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パレルモは、絵画の問題をストレートに追求した芸術家であった。絵画の問題とは、何が描かれているかではなく、絵画の存在意義を問う仕事である。しかしその仕事の厳しさの反面、情緒豊かな感覚を見る人に感じさせるのである。私はそこに、とても惹かれた。シンプルで厳しくありながら、暖かい。そして画家の手の跡というよりは、制作者の手の跡を感じさせる造形であった。あるいは身体の跡というのか。作品を見た時に強く感じた印象は、その存在感だ。アメリカのミニマルアートのように巨大さから来る存在感ではなく、ふとした感覚。会場の最後に設置された小さな連作はドイツからアメリカに渡ってからの作品で、厳しさに拍車が掛かった緊張感のあるものだった。A4サイズくらいの小さなアルミ板に筆の跡を強調した絵画。ついさっき描かれたような感覚に襲われ、会場の出口にありながら去りがたい気持ちにさせられた。後ろ髪を引かれるというのか。その会場の出口にボイスのレモンライトと呼ばれる、レモンと電球がくっついた作品がパレルモの作品と共にあり、「生の営み」という二人の共有したであろうテーマが仄めかされていた。情報社会で見えなくなっている我々の生を振り返る良い機会でもあった。