モーリス・ド二とピエール・ボナールの違い (芸術の社会性)

 東京駅から降りて、三菱一号館美術館ナビ派展を観に行った。ナビ派と言えば、モーリス・ドニが言った「絵画とは平面に塗られた色面の集まりである」が有名だ。私はその言葉を取っ掛かりにしながら会場に入った。先ず目を惹いたのはモーリス・ドニの「ミューズたち」だった。垂直性の高い荘厳な雰囲気の作品。教会の中に居る様な感覚に襲われた。実際モーリス・ドニは宗教的なモチーフを生涯追いかけていたようだ。次に目を留めたのはピエール・ボナールのシリーズ作「庭の女たち」。細長い画面が特徴の絵画で、先ほどのモーリス・ドニとは違う日常性がありリアルだった。
 ここで私は「あれっ?」と思った。そのシリーズ作で感じた感覚を頼りに他のピエール・ボナール作品を見始めた。すると画面にフラットな抵抗感があり、とても物質感が高く、画面の縁の辺りに強い緊張感を覚えた。私はこの感覚に対して、ピエール・ボナールはとても現実感のある人なのだと感じた。また、前述したナビ派の特徴である平面的で装飾的な部分をピエール・ボナールは女性のドレスの模様で表現していて、意識的に実際の布地を感じさせるように平面的に描いている。それに対してモーリス・ドニの女性は宗教色が強く観念的である。
 私はモーリス・ドニの絵画を注視し始めた。その観念的な作品は新しい宗教性を帯びていた。モーリス・ドニは日常の中にも宗教性を求めていた。自分の家族を描いた作品にも聖家族のような印象を与えていた。それは最初に目を惹いた「ミューズたち」と題された作品が発している荘厳な感覚と一致していた。モーリス・ドニピエール・ボナールを比べながら、共有している色彩の装飾性と、女性や家族に対する感覚の違いが浮き彫りになって来た。ピエール・ボナールが家族を描いた作品で小さな子供がジッとこちらを見ている作品があったが、彼は子供を「小さな大人」と表現していたそうだ。そこにピエール・ボナールが感じていた現実に対する水平性が象徴されているような気がした。
 私は両者が持つ宗教的で垂直な感覚と現実的で水平な感覚を交互に見ながら、他のナビ派の作品を横目にし、当時の最先端の画風である平面的な絵画を志向しながらお互いに違う視点で世界を感じていたのだと思いを巡らせていた。興味深かったのは、モーリス・ドニは生涯その画風がぶれなかったのに対して、ピエール・ボナールは当時流行っていたジャポニズム的な画風から逃れようとし、新しい画風を模索し続けた。それは画面にも現れていて、ピカソがボナールの筆は「イジイジしている」と表現していたらしく、私もその震えるような筆使いを感じていた。
 このように、当時純粋な絵画を志向しながらお互いの社会に対するスタンスの違いが女性に対する考え方、家族に対する考え方に顕著に現れていたのは非常に興味深かった。私達はともすると「芸術の純粋性」という幻想を抱きがちだ。芸術が答えを持っていると芸術家は考えがちだし、作品を見る人もその純粋性を期待してしまうのである。