「感覚の論理学」ドゥルーズ以降の問題圏、座談会を聞いて。

両国のART TRACE GALLERYで“感覚の論理学”ドゥルーズ以降という問題圏、という座談会を聞きに行った。「感覚の論理学」ジル・ドゥルーズ著の訳者の宇野邦一、そして林道郎松浦寿夫の三人の話を聞いた。不勉強で「感覚の論理学」は読んでいなかったが、楽しい話が聞けるのではという期待はあった。

先ず、話は画家のフランシス・ベーコンの作品論から始まった。私はこの間行われたフランシス・ベーコン展へ行っていた。しかし、気になりつつも作品に肉薄する事が出来ずにいた。宇野氏の言葉を聞き逃すまいと必死であったが、幾つかの言葉がベーコンの作品の構造を表していた。思いつくままに挙げてみると、落下、単色面、時間、フィギュア、物語性の排除、舞台、浅い空間など。それらの言葉に注意しながらギャラリーの壁に映し出されたベーコンの何点かの作品を見ていると少しずつ焦点が合ってくるのを感じた。自分の中にあった表層的なベーコンの作品の印象は剥がれ落ち、ベーコンを感覚することに集中した。とても不思議な体験だったが、他者の言葉を通じてスーッとベーコンの感覚が自分の中に入って来たように思われた。

その後に松浦氏が「感覚の論理学」の後半に書かれているジャクソン・ポロックのことを話した。そこではヨーロッパ的な絵画空間に拮抗するオールオーバーな絵画に於ける新しい図像について触れていた。白いキャンバスなどというものは無く、美術史によって黒く塗られたキャンバスを如何に洗い流すのかが問題だと。

私は両氏の話を聞きながらフランシス・ベーコンジャクソン・ポロックが繋がることで絵画を感覚する構造についてあるイメージが浮かんだ。それは、絵画と身体の関係である。最初にベーコンの絵画に於ける一見グロテスクに見える人間の肉体について“フィギュア”という言葉を宇野氏が何回も繰り返し話していたことが印象に残った。その“フィギュア”という言葉が単なるモチーフとしての肉体を超えて、生きた肉体が動く事実を舞台のような構造に載せるベーコンの絵画空間。そして巨大なキャンバスを用意して、その中を駆け巡るように絵の具を垂らしたポロックポロックは自身の言葉で、自分がまるで絵の中に居るようだと語っていたのを思い出した。絵画を感じようとする私の身体はベーコンの絵画の中に“出会う身体”を見た気がした。それに比べてポロックの作品は絵画の内側と外側に“明滅する身体”を想起した。

「感覚の論理学」という一見矛盾したタイトルの中に、感覚という概念における個体性が逆説的に美術の全体を描く可能性があるのではないかと思われた。