暗闇から見えた絵画。倉重光則展

横浜の石川町にあるアトリエKに倉重光則展を見に行った。見に行って先ず思い浮かんだのは、去年の1月に銀座のSteps Galleryで行われた倉重の個展である。その時はEBE(イヴァ)という名の青いネオンで発光した人体(宇宙人のような)の倉重作品を初めて見た時であった。その時はEBEが黒い絵画を見ているという空間設定だった。それから1年が経った。今回のアトリエKの会場には仮設の四角い壁に囲われた空間に対して四角い窓の外側から青く発行したEBEが覗いているという設定である。

にじり口のような狭い入り口から暗い仮説空間の中へと入った。ちょうど入った所で立った私はEBEから発せられた青い光を一身に浴びた。すると、私の身体がスクリーンのようになり“何か”を感じた。それは絵画であった。脳裏にはイメージとしての絵画ではなく、私の身体の表面にちょうど焼き付けられた刻印のようなものを感じた。私は試しに身体をゆっくりとEBEの光から離した。するとその刻印は無くなり、倉重が作った仮設空間に対する私の身体の位置のようなものを感じ始めた。暗闇の中から周りが見え始めた。倉重が壁の内側にに記したグリッドが見えて来た。さらにEBEによってもたらされた青い光やギャラリーの他の照明の光が混ざり合い、絵画を支えていた“暗がりのマッス”は、石膏ボードと木組みの壁構造の空間として別の様相を見せて来た。私は先に絵画の正面性を青い光によって感じた後であったのでそれらの内壁を“絵画の側面”のように感じ始めていた。

倉重の装置的な仮設空間作品は以前から見ている。ネオンなどの発光した光が物質に反射することよってもたらされる独特の空間は、形成している物質の質量が消し去られることによって成り立っている。この、質量が消し去られることによって、触覚的視覚は厚みの無い表面を知覚することになる。こうした、作品を見る人の知覚が現象化した表面に留まることによって始めて“この私の身体”がゴロっと現れる。しかしだ。私は先の青い光によってもたらされた絵画の刻印としての正面性と現象化した絵画の側面の関係の謎の中に居るのはなぜだろう。あ、そう言えば壁の外側に付いていた倉重のヴォイスパフォーマンスは絵画の側面と関係ないのだろうか。倉重はいつも、周りにある現実をありのままに語り、倉重の意識をトレースし続けている。その倉重の、感情をそぎ落とした意識の反射の感覚は、倉重が立てた内壁に私が感じた感覚とどこかで重なっている気がした。