砂澤ビッキ展を見た。 (芸術の社会性)

 桜の散りかけた曇り空の中、砂澤ビッキ展を葉山に見に行った。北海道旭川の出身でアイヌを祖先に持つ彫刻家だ。私の中ではアイヌを祖先に持つことが、どのような意味を私にもたらしてくれるのか楽しみだった。先ず出迎えてくれたのは、「神の舌」と題された大きな木彫作品だった。会場の入り口に対して正面を向いていた。部屋には、その一点しかなかった。彫刻の周りの空気が震えているようだった。彫刻に近づいていった。作品の周りをゆっくり回りながら、西洋の彫刻の概念と全く違うなと思った。私が知っているモダンな彫刻とは別の場所から発せられたものだった。近代西洋の彫刻の概念はまず彫刻という制度があり、それに対して芸術家が様々なアプローチを投げかけて社会に発信していく。故に彫刻のフォルムに、その痕跡が残っている。
 砂澤ビッキの木彫には台座が無い。意図して外しているというよりは、そうなるべくして無い様に見える。「神の舌」の作品を見ながら、心の中で「これは木のままだな」という声が聞こえた。しかし、それは物質としての木ではない。美術として自然から切り離されて、美術館という社会の制度に鎮座しているのとは次元が違う。私はさらに作品に近づいていった。驚いた。ノミの跡によって木目が複雑な断面を形成していて、表面が一様ではなく、ノミと木が関り合っているように見えた。衝撃的だった。さらに驚いたのは、砂澤ビッキのエゴが見えなかったことだった。また作為を努力して消しているようにも見えなかった。
 何かに打たれたような気持ちで次の部屋へと向かった。そこには壁にお面をモチーフにした木彫が並んでいた。お面に唇が沢山彫られたものや、身体の一部がお面に転移したようなものもあった。一見シュールリアリズム的なニュアンスを感じたが、観念で形成されたものではなく、砂澤ビッキの身体が、自身の身体を感覚していくようなイメージだった。またそのイメージは「王と王妃」と題された作品の王と思われる方の造形の一部が、足の様な腕の様な多義的な形からも伺えた。一瞬スイスの彫刻家のアルプの造形を思い出した。アルプは私たちの身体のイメージと身の回りにある生活品が合体した様なフォルムを沢山産み出していった。その背景には自然観があり、全てのものを一元的に捉える感覚があった。
 最後の部屋へと向かった。「風に聴く」と題された、大きな木が横たわり、周りに動きのある木が並んでいた作品。いや、木でありながら木彫である。木彫の表面は割れがあったり、自然の状態なので、本当にごろんと木があるように見える。しかし、人の手が加えられている、ある造形物なのである。私はもう一度最初の部屋へと戻り、「神の舌」と向き合った。“彫刻を浴びる”という感覚に襲われ、私と彫刻が共振したようになった。
 私は、あることを確かめようと足早に美術館を出て、外の葉山の海岸へと向かった。そこに松の木があった。うねる様な松の木の幹の形に砂澤ビッキの作品を重ねようとしたが、出来なかった。先ほど見た砂澤ビッキの木彫作品に感じた、一体感はどこから来るのだろうか。帰りの電車に揺られながら、モダン(近代的な)な時間で過ごしている私達とは一体何なのだろうかと思いを巡らせた。