マイク・ケリーの作品は面白い ―芸術の社会性について―


 
 マイク・ケリー展を青山にあるワタリウム美術館へ見に行った。マイク・ケリーは古いぬいぐるみなどを素材にした彫刻や、性や暴力などをテーマに痛烈な皮肉やユーモアを交えた映像作品で知られているアメリカのアーティストだ。先ず私を出迎えたのは、「課外活動 再構成」と題された、アメリカの実際の高校時代の「課外活動」の様子を写したモノクロ写真を題材に制作した映像作品だった。マイク・ケリーが脚本を書き、様々なキャラクターに扮した俳優が役柄を演じていく。
 レオタードに身を包んだ白塗りのダンサー3人が学校の中を奇妙で愉快な動きをしながら踊っている。突然場面が切り替わり一見無関係な、別に作った映像が続く。アメリカの中西部の出身を思わせるような中年の男性とバンパイアの格好をした男が話している。また場面が変わって悪魔の格好をした男が下品な話をする。そして映像の背景にはポップな音楽が流れている。途中で学校のスピーカーから汽笛が鳴る。それに合わせてダンサーの3人や様々な人が学校の中を動きまわる。この、聞いただけでは訳が分からない映像のナンセンスさの裏にある社会批判がツボに嵌り私は声を上げずに映像を見続けることが困難になっていた。
 会場を見回すと、「聖母マリアコンテスト」と題された映像作品が天井から吊るされていた。二人の若い女性が学校のイベントで品行方正を目指しながら、先生のような人がいちいち彼女達の身なりなどをチェックしていく。その“品行方正”という「ルール」を茶化すような「聖母マリアコンテスト」というタイトルと、映像作品の中で聖母マリアコンテストで選ばれた女性が着ていた、展示会場に飾られた沢山のピンクのファッションTシャツ。私はここまで作品を楽しみながら、現代美術という名の“品行方正”さを無意識の内に美術館の観客は求めているのではないだろうかと思いを巡らせた。実際会場に居た観客を見回してしまったほどであった。心の中でクスクス笑いながら会場を進んだ。多分表情にも出ていて、周りの人に変に映っているのだろうと思いつつ抑えられなかった。
 マイク・ケリーは実際の新聞の中の記事にある写真を参考にしながら、そこに物語を読み込んでいく。アメリカの大衆文化の裏にある不気味さをユーモアを交えて物語として再現していく。様々な登場人物が、良きアメリカに翻弄され、この世をさ迷う。宗教、田舎、若者など、自由と抑圧に挟まれる人間を描きまくる。マイク・ケリーは、ルドルフ・シュタイナーのような総合芸術を目指したいと語っていた。彼による映像作品は学芸的で舞台的な要素が盛り込まれ、虚構性が強調されつつ、テーマが非常に現実的。そういった絶妙なイメージのアンバランスさが、作品を見る観客にとっては自身の気持ちが揺らされ、感情のジェットコースターに乗っているような感じがするのである。
 また、性的なモチーフがふんだんに盛り込まれている。これは社会の構成要素のほとんどが実は性的なモノが隠されていることの裏返しだろう。「独身交流会」と題された映像作品では田舎風の女性が大きなバナナを抱えて、ずっと“大きさ”の話を続けている。するとKISSというロックバンドのジーン・シモンズというメンバーを崇拝している女性が“大きさ”の話ばかりする女性を馬鹿にする場面がある。しかしその女性は真剣な眼差しでジーン・シモンズの“長い”舌を“芸術”だと言っている。“性的なもの”が政治や社会の基底を成していることをマイク・ケリーは暴いている。マイク・ケリーは支配的な大衆文化(ポップカルチャー)の影響を受けながら制作するほかはないから、それを使って“遊ぶ”と言っている。
 自由と抑圧は相反するようだが、ある文化の“中にいる”ことによってそれは分かち難き感情となる。それをマイク・ケリーは見抜いている。特に、学校や、教会など規範を求める場にそれが象徴されるのだろう。マイク・ケリーの映像作品の中のバンパイアのボスによる「モチベーションを高めるスピーチ」では、“より良き者”という抑圧概念が大衆文化を支配している様子が描かれている。反対に魔法使いの役であるヒッピー風の若者は麻薬中毒者のような空ろな目をして森をさ迷っている。またグールという“白い仮面”をつけた男性も様々な場所をさ迷っているが、私はこのキャラクターはマイク・ケリー自身なのではないかと感じる。
 こうしたアメリカ独特の大衆文化の在り様をユーモアを交えて表現するマイク・ケリーに心底笑わせてもらった。観覧中、現代美術だということを忘れそうになった。それぐらい、自分自身の奥底の感情が文化の違いはあるが“その通り”だと思わせる鋭さがあった。