快慶・定慶それぞれのリアリズム −芸術の社会性についてー



 東京国立博物館に快慶・定慶のみほとけ展を見に行った。仏像彫刻にはほとんど知識が無かったが、快慶の鬼気迫る造形をこの目で見たかったのが動機だった。しかし、結果は自分の期待を大きく上回る物であった。
 先ず、快慶の釈迦十大弟子の仏像があった。舎利弗などその圧倒的なリアリズムに息を呑んだ。また自分を戸惑わせたのはこのリアリズムがどこから来るのかという疑問だった。確かに日本の一般的な仏像彫刻に比べて人物表現が細かい印象がある。厳しい修行を感じさせる肋骨の表現や、それぞれの弟子の生き方を表わした顔の表現。しかし一番私を捉えたのはその実在感だった。そして何故か仏像自体はあれほど細かい表現がされているにも関らず、ある一定の距離を持って鑑賞するとさらにリアリティが出て来るように感じた。私は思わずスイスの彫刻家ジャコメッティを頭に思い浮かべた。モデルに対する距離に拘ったジャコメッティ。快慶の彫刻はジャコメッティ同様その距離感が大切な要素だと思われた。ジャコメッティの彫刻は彫刻家とモデルが向き合うその直線的な距離の中に浮かび上がる。実際作品を見る観客も直線的に向き合う。だが快慶の場合、彫刻の周りをぐるっと廻りたくなる欲望に駆られるのである。変な喩えかもしれないがアメリカ映画のマトリックスを思い出させる。被写体が静止していて視点だけが360度回転するような感覚。その人(十大弟子)が生きながら時間だけが止まってしまったような。
 また私は快慶のそれぞれの仏像の眼差しの表現を覗いてみた。だがあれほど実在としてのリアリテイを感じさせる造形ではあるが、目はただのガラス玉に見えた。自分の目が可笑しいのかと思い、何度も確認した。しかし私の目にはガラス玉に映った。目の表情そのものは表現されているのにだ。私は勝手に、“外側”から見た客観的実在としての人間(実際に釈迦の弟子で実在したと言われている)なのだと想像して納得した。
 続いて定慶の六観音像を見た。私はすぐに快慶と比べたくて眼差しの表現の確認をした。確認というよりも凝視ではあったが。みごとに全ての観音像が違った表現がなされていた。私は不思議なマジックにでも掛かったようにその眼差しの意味するところを目に焼き付けようと必死になっていた。それぞれの観音像を代わる代わる見ながら眼差しが何処を見ているのか注視した。聖観音菩薩像はすぐ目の前を直視している感覚があった。私はこれを現実そのものを直視しているように感じた。千手観音菩薩像の薄く開けている目は何も見ていないように感じた。どこを見るわけでもない眼差し。馬頭観音菩薩像は怒りに我を忘れた眼差しを感じた。十一面観音菩薩像はひたすらに内面を見続ける眼差しを感じた。准胝観音菩薩像はどこまでも遠くを見続ける眼差しであった。最後の如意輪観音菩薩像はひたすらに思考する眼差しに私には見えた。
 快慶と定慶の木彫の違いは何を意味するのだろうか。ここから少し飛躍した言い方になることを断っておきたい。私には定慶の木彫は「絵画的」なのではないかと思った。それは上述した木彫の眼差しの内的表現から発想した。人々の信仰の対象としての内面性が理由だ。もちろんここで絵画の定義自体が“内面性と眼差し”という二つの概念だけであることを断定したいわけでは勿論ない。また、快慶の木彫は「彫刻的」であると思われる。その根拠として上述した外的実在としての在り方がある。他者は「この私」にとってある距離を持って世界にそれぞれ存在している。「この私」から見れば他者は僅かながら小さく見える(身長ではなく)のかもしれない。こうした快慶と定慶の表現の違いから仏教的な我々衆上の在り方を考えてみるのも良いかもしれない。