芸術と眼差しⅣ 「写真家の眼」  

 

 


誰もがスマートフォンで気軽に写真を撮れる時代。撮った写真を画像としてSNSに投稿する。そんな時代背景にありながら、では写真家の眼差しとは何なのかを考えてみる。写真家である中平拓馬、ベッヒャー夫妻、マリオ・ジャコメッリの顔を見ていくと、画家や彫刻家とは違う眼差しを持っていると感じた。まるでカメラのレンズのようにどう見ているのかを”眼の表情“が訴えている。これはどういうことであろうか。

 

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中平拓馬の眼を見てみる。画家の眼のような内面との関係性を感じられない。フラットというか、現実をそのまま見ているかのような眼差し。中平拓馬の写真を見てみる。即物的な印象のある写真。物語性はあまり感じられなく、対象物として写真が存在するようなイメージがある。今回何枚か見ていくと、あることに気が付いた。それはフレームの問題である。写真の中にそれと認識できる被写体が映っている。しかしその被写体の周りが意識的にフレームアウトしているのである。また「写真を撮る」ということは何かを記録することと関係がある。何かのイラストレーション(図)として被写体を撮るのが写真の概念の一つである。これは写真が発明されるまで、絵画が担ってきた機能の一つでもある。AがAとして映っている、あるいは描かれていることが絵画や写真の社会的機能だからだ。メモリーとしての。

しかし、もし写真家が世界の全てを撮りたいと願った場合はどうだろう。ファインダーから覗いた瞬間何かが切り取られ、切り取られなかったものは表現出来ない。この切り取られなかったものが、中平拓馬の写真の中に見られるフレームアウトしている感覚なのだろう。だからこそ、即物的に撮っているにも関わらずに現実のその向こうが見えるような気がするのかもしれない。

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続いてベッヒャー夫妻の眼差し。中平拓馬の時も感じたが、まるでカメラのレンズのような眼。現実を鋭く見ようとする眼差し。代表的な作品として、給水塔や様々な工業的な建築物が複数の組写真として提示される。グレーを基調とした写真は客観的な記録写真を思わせるが、作品に漂う緻密な美しさが認識を新たにするよう観客に迫ってくる。6枚から9枚またはそれ以上で構成される複数の建築物の写真群は「それが何かを表している」という写真の機能を逆手に取るようである。各々の被写体の違いを比べながら「ものそのもの」という概念が揺らいでいくのが分かる。夫妻の眼差しにある鋭さは、そうした「そのもの」を客観的に見ようとすることを我々に提示してくれる。

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最後にマリオ・ジャコメッリである。前の二人はカメラのレンズのような目をしていた。ジャコメッリはまた違う。画家のように内側から外側を見るような眼差しとも違う。やはり写真家として世界を直接鋭く見ようとする眼差しである。ジャコメッリの写真は白と黒のハイコントラストで出来ているが、光と影のような白黒写真ならではのハイコントラストではない。色彩を感じる。人物写真において黒は内面を、人々を憂う心を映しているかのようである。白は来るべき未来というか、天上のものというか人々の願いが込められているようだ。ジャコメッリの写真は白と黒の詩なのである。若い神父たち(黒い服装)が雪上で遊ぶ姿や老人介護施設での人々の姿は人の生死または神父たちの聖と俗を表すかのよう。風景の写真は地球の営みを表し、宇宙的なスケール感がある。また写真でありながら絵画とも取れるような全体性がある。その全体性がそこに映っている人や風景を超えた何かを我々に伝えてくれる。

最初の問いである、写真家の眼差しとは写真家の眼に映っているものを直接表そうとする意志が作り上げたのかもしれない。単純に被写体を他の世界から切り取るだけではない「世界そのものを見る力」なのだろう。