縄文から古墳へ −芸術の社会性について−


 
 東京国立博物館平成館考古展示室を訪ねた。入り口では埴輪が迎えてくれた。とても美しい像だった。一見素朴な造形であるが、その円筒型の人体は中心線が僅かにずれていて動きがあり、その動きにつられて帽子の曲線、衣服の曲線などが相互に動き出す。不思議な中立性を醸し出していた。入り口を入ると、縄文土器が表れた。非常に緊張感のある造形に思われた。説明には、土器の出現により食物に火を通すことが出来て衛生的に向上したと書いてあった。縄文人の食生活と火の関係は特別なものだったのかもしれない。火焔土器と呼ばれる火をかたどったデザインがあるが、生活に欠くことの出来ない火を神聖化したのだろうか。また縄文の名の通り、縄目などが施された文様を見ていると、一見繰り返されているただの模様のように見える文様が物語のように感じられた。後で調べたら、豊穣、安産、男女愛などを祈る意味があったのではないかと考えられているようだ。また特徴として器という道具と文様が一体となっていて、縄文土器が何か特別な存在として縄文人の生活の中にあったのではないかと想像した。
 隣には弥生時代の器があった。こちらは均整の取れたデザインが特徴である。壷や、高坏(たかつき)、鉢など用途別に器が作られている。縄文土器と違い器を使用する目的の方が重要である。これらは渡来の文化の影響であるが、縄文時代の文様による祈りの器から、生活をコントロールしていった弥生人の営みが垣間見られて興味深い。壷は、何かを蓄える意味が感じられて、農耕文化である人間の「所有」文化の始まりを表わしているとも言える。比べて縄文時代は自然界と地続きであり、それが土器の口の部分の拡がりに表れているように思えた。
 器とは大切なもの(食物、遺体)を入れる空間であり、器のカタチがそこで生活している人間の世界観を表わしていると考えることが出来る。そのように考えながら進んでいくと、古墳時代の鏡や装身具が現れた。ムラからクニが生まれて、人々を統治するために政治が行われ始めた。渡来(中国)の模様の入った鏡などには、そうした統治者の思いが感じられた。銅鏡と呼ばれる金属を磨いた鏡は神道の中では太陽を写すものとして使われた。これも心の器と考えると面白い。古墳時代の埴輪は葬礼のために当時の生活を模した人形や、家、馬などが素焼きで表現されている。興味深かったのは、所謂埴輪人形のポッカリ空いた目と、埴輪の家の窓が同じ雰囲気を持っていることだった。これはどういうことだろうか。何故目が繰り抜いた穴として表現されているのか。何故描かなかったのか。埴輪全体が“死者”あるいは“死”をイメージしているとすると、あの世とこの世を繋いでいる窓、穴、境界のようなものなのだろうか。だとすれば、家の窓、人形の目、馬の目、馬のお尻の穴など、穴と言うものが“生と死”“あの世とこの世”を繋ぐ機能を持っていると信じられていたのかもしれない。また、埴輪の人形も、家も、馬も同じようなスケール感で作られているのも不思議に感じられた。何かを特別に神聖化して祭っている感覚ではない。全てが友達のような平行的な感覚を覚えた。ある安楽感を表わしているのだろうか。現代の日本というイメージから離れて直に古代の人々の思いを想像することは人間の普遍性に繋がる感覚を探していくことであるような気がした。