ルドンと怖さ ー芸術の社会性についてー

 

 
 画家のオディロン・ルドンと言えば、晩年のパステルを使った鮮やかな色彩、花や蝶のモチーフ、一つ目の巨人、目を瞑る人物画、怪しいモノクロの版画など。それらが醸し出すファンタジックな印象の奥を確かめるべく、有楽町にある三菱第一号美術館に向かった。会場に入って先ず目にしたものは樹木を描いたモノクロ版画作品だった。いきなり画家ルドンに出会えた感じがした。その後の樹木をモチーフにした絵画作品はルドンの本質を私に感覚的に教えてくれた気がした。目の前の木々を風景として捉えているのではない何か、“ある怖さ”を含んだもの。油彩画は鮮やかな色彩の斑点を感じた。そこには遠近法的な奥に行く空間は無く、色彩が色彩のまま、物質感を帯びて画面を飛び越えて私に届いた。反射的に、晩年のパステル画と結び付いた。パステルの物質感と、油彩画の筆触がキャンバスにちょこんと置かれたように見えたことが頭の中で繋がった。
 次の版画のコーナーへと進んだ。そこで、植物学者のクラヴォーに影響された経緯が説明されていた。クラヴォーの目に見えない微生物などの小さな生命への探求に、ルドンは傾倒して行ったようだ。そのころ作られた版画には、花の芯が顔になっている植物人間や、一つ目の怪物の絵などが白黒の明暗の中で怪しく光っていた。それは、目に見えない何かをルドンが見ようとしていたからだろう。私は先ほどの鮮やかな油彩画との感覚の違いを考えていた。良く見ていくと油彩画で起こっていた同時に生起する物質感を伴った色彩の生起が、モノクロ版画では形を変えて明暗によって白と黒の物質感が生起していた。そして、よりダークなファンタジーになり、物語性が増していく。また、蝶と花が描かれている作品があったが、蝶が花に擬態する姿から発想を得たことから、わざと蝶なのか花なのか判別しづらい絵をルドンは描いている。ルドンは樹木と人間、動物と植物などの境が無い世界を創造しようとしていたのかもしれない。
 途中の展示で、壁面装飾用に描かれた大きな油彩画が並んでいたのを見た。そこで気付いたのだが、ルドンの絵画には表面が揺らいでいるような感覚があり、一種の浮遊感がある。また、画面の中心のようなものが感じられない。モチーフは具体的に描かれているが、どこかフワッとしている。モチーフは花や人物が描かれているが、全体がはっきりしない感覚になる。ここまで見て来て、ルドンがわざわざ“怖さ”を絵に持ち込む理由を考えながら、あることが頭に浮かんだ。それは先日見た熊谷守一の、境の無い生死を越えようとしたノッペリした世界だった。熊谷守一も色彩の明暗と彩度(鮮やかさ)を構成して視覚的に境が無い世界を描こうとしていた。そこには生命の輝きというよりは境の無い薄気味悪い世界があるように私には感じられた。その境が無い世界が一種の怖さを呼び寄せているのか。ルドンのファンタジーの裏にはそうした鮮やかだが薄気味悪い世界がある。人間は怖いもの見たさがあるが、それは、現実を覆っている表面を剥いだ奥の暗くて怖い世界を本能的に知っているからだろうか。またこうも思う。我々が生きている“現代”の社会を考えた時、ボーダーレスな社会は保守的な価値観からは恐怖を感じるのかもしれないと。
 我々は今多様性の時代を迎えている。多様性を広げていけば無際限な世界がそこにある。だが、その多様性を許さない区切られた世界が現代の我々が住んでいる世界だ。さらに多様性を恐怖に思い、区切られた世界に安心を求める価値観が台頭し始めている。私は、ルドンの作品の色彩と物語の不思議さに吸い寄せられていたが、そこには何か大切な“怖さ”があるのではないだろうか。