セザンヌとジャコメッティ -芸術の社会性について-

 

 

        

 

 

 


                      

  

 


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画家ポール・セザンヌと言えば風景画と静物画で有名である。また、彫刻家アルベルト・ジャコメッティと言えば細長い人物の彫刻が有名だ。今回は一見違うが似ている二人の芸術家を比較してみたい。画家と彫刻家、ジャンルは違うがジャコメッティセザンヌを非常に意識していたようだ。何故だろう。画家セザンヌは、印象派に影響されながら作品は人間の顔をゴムまりのように描いていると批判されていた。妻の顔さえも。しかし彼の画業は人間の感情や表情を表現することでは無かった。絵のテーマは必然的に静物と風景が多くなっていく。彫刻家ジャコメッティはどうであろう。シュールリアリズムやキュビズムに影響されて抽象彫刻を制作するが、断念する。代わりに具象彫刻である人物に没頭していく。時代に影響されながら、独自の視点を持つ点が二人に共通している。

ジャコメッティは、「私の現実」というコンセプトを元に自分に見えているままの現実を捉えたいという衝動に突き動かされ、生涯を芸術に捧げた。その方法として、モデルの人物に何時間もポーズさせて執拗に自分に見えている現実を捉えようとした。朝はモデルを見ながら。夜はモデルを思い出しながら制作した。このアイデアは画期的である。何故なら、想像の中で制作することと、現実を目の前にして制作することの違いを追求しているからだ。これは一見単純であるが、「見えたまま」というある種の感覚の受動性がテーマになってくると、現実と非現実は境が曖昧になるからである。

一方で、セザンヌは何故ジャコメッティにそこまで影響を与えたのだろう。両者の共通点は「あるがままの存在」ではないかと考える。セザンヌは「存在の問題」を絵画に求めるべく、人間の感情や表情を脇に置いて、自分に世界がどう見えているかを執拗に追求した。区切りの無い自然の風景に魅了されて、空と山、木々と家々、山と湖など目の前に広がる空間をテーマとした。また静物画では、静物が空間に置いてある状況だけを描くことで物の「存在」に迫ろうとした。ジャコメッティセザンヌにとっての「見えたまま」「あるがままの存在」が、どのような方法で追求され、また共有されたのであろう。

一つ考えられるのは、「距離」の概念である。距離はジャコメッティのキーコンセプト(ジャコメッティは自身の芸術に対して多くの言葉を残している)でもあるが、人物画あるいは肖像画というジャンルにおいて通常距離という概念は必然ではない。しかしジャコメッティは、モデルが正にそこに居合わせている現実を距離の概念からアプローチしたのかもしれない。またセザンヌにとって、風景画に内包される距離(近景、中景、遠景)自体をテーマにすることが、全てを“印象”(impression)に帰する印象派から袂を分かつ要因になったのかもしれない。セザンヌの風景画や静物画にある、目の前に生起するような存在感は、画家と対象物との絶え間ざる現実確認なのである。この一見違う二人の芸術家のアプローチが「距離」の概念を通じて呼応していくことは興味深い。

我々現代人は様々な距離(心理的距離、物理的距離)を克服して、近代を立ち上げて現代の自己的生活を手にしてきた。しかしインターネット社会を経験して、距離の概念に揺らぎが出ている。我々が持っている通念としての風景や、人物(他者)、情報は今どんな揺らぎを持って我々の目の前に表れているのだろうか。絵や彫刻を単なる非現実的な表現された物体として見るのではなく、「現実を見る装置」として見直すこと。現在におけるインターネット社会ではびこる人間の脳と現実の関係が見直せるのかもしれない。芸術とは本来そうした社会性を孕むのである。我々にとって「距離」とは何か。人間関係、社会、自然...