コンセプチュアルアートについて -芸術の社会性について-

     

 


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芸術の形式の中にコンセプチュアルアートというものがある。元を作ったのはマルセル・デュシャンの既製品を使ったレディメイドという概念を持った作品群だ。デュシャンは、視覚芸術に対して新しい提案をした。それは既に我々の身の周りが芸術なのではないかという、何かを制作する前の段階(生きていること)を示唆した斬新なアイデアを元にした作品だった。視覚芸術は、目と手を使い非日常を作り出すことを信念としてきた。しかしデュシャンは、印象派セザンヌキュビズムに影響される内に視覚のイリュージョン(彼の言葉である網膜絵画)ではなく、別のビジョンを視覚芸術に求めることだった。有名な作品に、男性便器を横にしてR.Muttとサインした「泉」という作品がある。これは有名なアングルの「泉」をモチーフにして、人々に意識の変革を迫った作品である。この、既に我々の身の周り(男性便器)が芸術であるという発想は突然出て来たものでは無く、ルネッサンス以降近代の芽生えの延長として必然的に出て来た芸術形式でもある。ルネッサンス以降芸術は「個人」をアイデアの源泉として、社会との関係を探って来た。そうした中で芸術家自身が作品を制作すること自体を疑問視してきたことは、現代に於いてもまだ理解されているとは言い難い。昨今アートという言葉が溢れているが、制作すること自体をアートと名指し社会化を図る流れに非常に政治的なもの(アートは良いものという価値付け)を感じる。

しかしその準備をしたのもコンセプチュアルアートなのである。コンセプチュアルアーティスト達は、社会的な意識を持った制作が多く、我々が生きている地平そのものを作品化しようとする目論見がある。後に社会的影響として「何とかアート」など人と人を繋ぐ材料としての方法となっていったことは皆の承知することだろう。アートは日常的には政治の道具になってしまい、政治(民主主義的な)そのものとは縁遠いものとなってしまった。では、コンセプチュアルアートとは何であって、その前の芸術とその後の芸術とどんな関係にあるのだろうか。歴史に残るコンセプチュアルアートの作品を辿っていくと、一応に自我を否定した作品が多い。コンセプチュアルアート以前に価値とされていたオーラという概念が「近代的自我あるいは自己」と重なり、長らく近代の芸術家を悩ませて来た。背景に個人のエゴが何か神秘的なオーラを発すると社会が信じて来た歴史がある。

一方で個人を突き詰めることは、やがて非個人や反個人となって様々な作品を生み出してきた。自我や自己を否定することは、もちろん政治的なファシズムを生み出す可能性だってある。しかしコンセプチュアルアートの作品群がファシズムと正反対にあるのは、個人を優先し、権力を嫌うからである。一種のアナーキズムである。個人はあくまでも弱い。しかし未だにアートはビジネスとの関係が切れずに芸術作品を多額の投資として考える社会は無くならない。

私は芸術の役割は個人と社会を照らし出す光だと考えている。今回取り上げたコンセプチュアルアートという芸術形式にはそうした光をカタチにする力があると思う。個人という弱くて強い存在を社会が共有する日はいつになるのだろうか。