人と作品 -芸術の社会性について-

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横浜のあざみ野スペースナナで行われている「ココロはずむアート展」に行って来た。106人の障害を持つ方の作品展。今回自分の中で、“人と作品”というテーマで彼らの作品を見ようと思っていた。展覧会では「作家カード」と言われる、制作した作家を施設の職員が紹介する一文が作品と共に展示されている。何故自分が“人と作品”というテーマをわざわざ作って展覧会に臨んだかを説明しておくと、所謂現代アートの世界では「作家」という存在は一度死を迎えているからだ。誰でも知っているピカソゴッホの時代から作家とは誰なのか何なのかを芸術家は世の中に問うてきた。それまでは宗教的な画題があり、それを芸術家が個人で表現し、また工房で弟子による制作が行われていた。言わば、画題が主体でありその後ろに制作者がいた。観客も画題を見るのが習慣となっていた。しかし近代以降作家が主体となり、宗教を離れた個人とは何なのかが芸術家の仕事となっていった。それが現代に近づくにつれて、制作そのものが主体となり、芸術作品は社会化されていく。

そうした時代的な背景も頭の隅に置きながら、今回障害を持つ方の作品に接していった。その中で印象的だったのが、作家を紹介する顔写真と作品の絵が全く同じものが幾つかあって驚いた。笑顔をこちらに向けている写真とイラストの表情、特に目の表情が同じだった。しかしそれは一部の作品であって全体では無い。他に印象的だったのは刺繍の作品で、丁寧に一針一針縫われた線画のような模様は作家の息遣いが聞こえて来そうな作品だった。またパラダイスのような風景が広がる作品もあり、作家カードに記された明るい人柄が表現されていてなるほどと思って見ていた。総じて見ると、“人と作品”は非常に似通ったものであることが分かった。そこには106人分の魂が存在しているのであった。

以前ピカソゴッホの絵を、描かれた目を中心に論評したことがあった。その時は眼差しが問題となりピカソの現実を鋭く見る近距離な眼差しと、ゴッホのあくまでも自身の内面に向けられた眼差しを見つけた。より丁寧な分析を障害を持つ方の作品一つ一つに向けるとまた違った層が見えて来るだろう。一般的に障害を持つ方の作品に向けられた「純粋さ」や「素朴さ」を見る見方は一方にある。しかし一人一人に寄って見ると作品も人も変わってくるのかもしれない。我々は永遠に人をカテゴライズし、その人を理解することは出来ない。

話は飛ぶが、自分自身施設で働いており障害を持つ方の展覧会を通じていつも学ぶことが多いと感じている。今回の「ココロはずむアート展」の期間中のイベントで「作家を語る、作家が語る」というものがあった。制作者が会場で自身の作品を説明し、突然制作を始める人もあった。観客は作品の秘密を聞けるまたとないチャンスであり、障害を持つ方は自身や作品が注目されることが励みになっていると聞いた。この時感じたことは、見る人と見られる人の関係だった。作品は人が作る。それは見られたいという欲望に支えられている。最初は衝動的に制作していたものが人の目に留まり、注目されて自信が付く。そしてまた作る。“人と作品”とは切っても切れない関係なのではないだろうか。もちろん美術として作品を楽しみ、また社会化することはあるだろう。人はそのままではいられない。誰かとコミュニケーションを取って生きている。そこに作品が媒介となるのである。