「不良実存」展 ー思考する家ー  ”芸術の社会性について”

 2017年10月8日(日)−10月30日(月)まで、千葉県江見海岸周辺で山田和夫氏が提供してくれたアトリエ兼住居であるEmiスタジオにおいて「不良実存」展が行われた。筆者である私は同じ企画の第一回目「不良」展からの参加であった。展覧会の企画をした倉重光則氏は、東京などの画廊での制度的な空間ではなく、わざわざ時間を掛けないと見に来ることが出来ない場所での展示により、思考を促す「何か」が生まれるのではないかと語っていた。それは、見に来る観客だけでなく、作品を制作する作家にとっても興味深い経験となる。
 第一回目の展覧会の参加作家達7人の打ち合わせのときに私は展示場所である海岸に「何か」を突き立てたくなる衝動に駆られた。それは今振り返れば、人間としての「ここに自分は生きているんだ」という感情がそうさせたのかもしれなかった。そうした作家としての初期衝動に向き合うことが、キャンバスなどの制度の中から生まれるものではない「何か」を発見していくことになる。それは作家本人の問題だけではなく、参加作家同士の思考がお互いに浸透しあい、他者がそれぞれの身体に住み着き始めるといった体験も伴う。
 近代を振り返れば、ピカソなどもブラックと一緒に同じテーマでキュビズムを展開し、どれがピカソでどれがブラックの作品か一見して見分けが付かないほどお互いの思考を共有していた。それは芸術というものが「誰が描いたか」という問題ではないことを証明しようとしているようにも思える。会場を提供してくれた山田和夫氏はセザンヌゴッホも都会から離れたローカルな場所でサントヴィクトワール山や、郵便夫を描いたのだと語っていた。それは、我々は美術館でしかそれらの名画を見ることが出来ないが、その名画が生まれた要因はキャンバスがかつて置かれていた場所から生まれたものだという当たり前のことを想起することになる。
 第二回目の「不良実存」展では16人の作家が集った。サブタイトルの「思考する家」を体現するように周りの海岸や、庭、屋根、あるいは地下、メインの会場空間を含めた全体が共鳴していた。それぞれの作家がそれぞれの場所に触発され、思考や感覚が促されていく。そこには、目に見えない社会性や政治性が含まれている。今回参加してくれた山田葉子氏は、「この場所に来ると素になれる」と言っていた。現代の過剰な情報社会の中で泳いでいる私達は瀕死の重傷である。また山本伸樹氏の作品として海岸に包帯を巻かれた木が横たわっている。傷を癒す行為は福島の原発事故が海岸を通じて語られ、白波の音が循環する海岸で我々をそこに留まらせる。
 展覧会期間中に江見の地元のお祭りがあった。そのお囃子が微かに会場の中で聞こえた。そうした縦の歴史の時間と、同時代を生きる作家同士が作る横の時間が交差していく。生活と芸術という大きな課題も経験することになった。それは山田和夫氏の住居でもある場所で思考し、制作することであった。古い木造の民家を住居兼アトリエに山田和夫氏自らが改築した空間は山田和夫氏の思考や行為が満ちていた。私は毎回江見を訪れる度に先ず到着したら海岸に出て散歩をすることにしていた。それは、体調チェックのようなもので今自分が何を感じて何を考えているのかを見るためだった。海岸には流木や、波によって描かれた砂の模様、どこまでも高い空、江見海岸に点在する岩など、その都度身体が感じるに任せていた。繰り返し打ち寄せる波、水平線、砂浜に残る生の痕跡。そうした自分を超えた時空間に身を浸すと“点”である自らの生が浮き上がる。“点”である私達がしばし場所を定める。“点”でしかない私達が場所を捜し求める行為が作る社会性を“芸術”と呼んでみてはどうか。それは、参加作家達が実際に展示や作品制作にあたり、向き合った「何か」なのだろう。