背中合わせの実存、松下誠子作品論。


 松下誠子の作品に出会ったのは、鵜の木のHasu no hanaで行われたパラフィンドレスが天井から吊るされたインスタレーションだった。そこには、松下誠子の声の作品や、写真を基にしたドローイングなども目撃した。その時の私は、作品から発せられる実存性はかろうじて捕まえられた。しかし松下誠子の言葉にある「第二の皮膚」とパラフィンドレスを表わす感覚が宙に浮いたままだった。二回目の出会いは、渋谷のLe decoで行われたセキュリティブランケット(幼児が安心感を得るために持つ毛布)がテーマであるパラフィンドレスのパフォーマンスだった。これは、私もパフォーマーとして参加した。言い換えれば、松下誠子の作品を内側から経験したことになる。ここで、感覚的なショックを味わうことになる。それは、リハーサルの時だった。パフォーマンスは、下着を着けない状態で直接ドレスを着て動く。通常服を身に着ける場合、服は寒暖から身を守り、またファッションとして見られている自分を想定している。言い換えれば、周りの環境との関係性が了解されている。しかし、パラフィンドレスはその了解が担保されていない。パラフィンドレスを身に着けると、自分がどのように見えているのか分からない。また、感覚としてパラフィン紙の皺によって身体(皮膚)に付いている所と離れている所がそれぞれに知覚される。そのそれぞれに知覚され、感覚されるドレスの皺が作る僅かな空間が、内と外を包摂する「感覚する時間」として発生する。
 この時のパラフィンドレスの経験が私に松下誠子作品を知覚するきっかけとなった。その次に私を捕らえたのは、横浜の石川町のアトリエKで行われたインスタレーションで出会ったクッションのオブジェだった。白いクッションのオブジェは、中が空洞になっている。それは、床と壁にもたれかかる様に設置されていた。その外側の展示空間に接する感覚が、何かを私に伝えていた。また、日常生活で“身を癒してくれるクッション”という身近な存在が松下誠子作品のモチーフであることに気付くことが出来た。しかし、その空洞を内包するクッションは石膏やセメントで出来ているようで硬い。そして表面に見えているクッションの皺がまるで感覚の記憶のようにそこに存在していた。この時、松下誠子作品に繰り返される、ある「感覚の構造」が見えたような気がした。再び鵜の木で行われたインスタレーションでは、パラフィンワックスの作品に出会った。壁に展示され、奥に女性の顔写真が見え、手前はパラフィンワックスの積層された空間が半透明の時間を作る。ここで私はとても私的な感情に捕らわれた。それは生きていて越えられないある感情だった。それは他者に出会った時に私が感じるプライベートな感覚が露わになる瞬間だった。私はジッとその感情を見つめたい衝動に駆られた。
 その時にも松下誠子作品に共有されているある構造が見えた気がした。それは、展示された壁から始まり、一旦女性の顔写真の表面を感覚し、さらに時間を置くとワックスの表面に表れている積層時に出来た皺に気付く。この常に表れる実空間へアクセスし続ける、内面と外面を行き来する感覚は、パラフィンドレス、クッションオブジェ、パラフィンワックスの作品に共通している。また、谷中HAGISOで行われたインスタレーションで見た、鳥のクチバシを模した羽根を纏ったオブジェとクッションオブジェの角の尖りが、共通の感覚で出来ていることに気付いた。これは、クチバシのカタチと、柔らかいはずのクッションの角が硬く尖っているカタチの相似に見られる。ここで、尖ったカタチの先端が持つ攻撃性と、尖ったカタチと同時に感じる羽根やクッションの柔らかさを比較した時に表れる矛盾が「背中合わせの感覚」となって私を捕らえるのである。
 先日自閉症を伴う障害を持つ方が、苦手な音を遮ったり、掻き消すために自ら声を出す事を聞いた。この身を守るためにする行為は、松下誠子作品のテーマであるセキュリティブランケットや、私が作品を感じた際に表れた「背中合わせの感覚」と同じではないだろうか。この、「背中合わせの感覚」を持ったオブジェが松下誠子の作品「である」と考えたい。