「消える矩形」倉重光則展

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横須賀美術館へ倉重光則展を見に行った。海に面した小さな丘の上に建つ空間に作品が置かれていた。先ず先に見たのは倉重が現在まで行って来たインスタレーションの数々をモノクロ写真で再現したものが並べられた空間だった。インスタレーション作品(設置型の仮設作品)は残らないことが多い。その「残らないこと」を再確認するような展示。当時のインスタレーション画像を見る行為は作品がある空間と観客との同時性が正にインスタレーションの本質なのだと逆説的に思わせた。次に見たのは彩色された鉄のフレーム(枠)で構成された絵画作品。照明も当てられずに会場の自然光だけが仄かに照らしていた。その作品は以前あるギャラリーで見た作品であったが、また違った顔を自分に見せてくれた。何か作品然としたものから離れた、作品が目の前にあるのに無いような感覚に襲われたのだ。そのことを別の言葉で言えば、矩形が消える感覚と言えるか。矩形(絵画の四角)とは人間が人工的に区切って考えた概念である。人間は区切ることで社会を営み、人生を送る。しかし、一方で区切らない何かとも繋がって生きている。

倉重の作品はそうした、絵画が持つ矩形という形式から、作品を見るということを通して自己が直接世界に繋がる回路を見出している。また倉重は偶然蛍光灯の光が新聞紙の文字を消す現象を見て直感したことを何度も語っている。蛍光灯や、ネオン管を使った作品を倉重は数多く作っているが、照らしている発光体そのものは物質性を免れている。この事実は照らされている物体は照らされることによって人が認識出来ることに繫がる。認識自体は人間の観念や概念といった心の内に存在するものである。しかし心の内は内面なので暗くて見えない。笑い話のようであるが、倉重作品に共通する構造とはこうした生きることのパラドックスに満ちている。

ネオン管の作品は今回も出展されていて、川を思わせるような床面に不規則に並べられた青白い光が優しく観客を迎えていた。そこには作家の言葉(詩)が相似形になって壁に設置されている。先ほどの記述にある言葉と光の関係がここでも繰り返されている。そこには表れては消える自身の制作の過程が仄めかされている。言葉の作品の反対側の壁にはネオン管の光が映りこんだ透明な矩形が鉄のフレームによって作品化されている。これは絵画がイリュージョンであるという一般的な思い込みを想起させる。観客は思わず絵を見ようと下がってしまい、現実の空間にある床のネオン管にぶつかってしまいそうになる。

最後の空間は鉄板で出来た四角いトンネル作品。10mくらいはあるか。正確にはトンネルでは無くて正面に壁があり矩形に配置された強い光が観客を迎える。むき出しの鉄板の通路を進むと身体の力がスーッと抜ける感覚があった。面白かったのは光を背にして入口に帰る時だった。光の記憶が脳に残りながらそのトンネルを後にする一歩一歩に何か感触があるのである。またトンネルの入り口に構えるボーっとした乳白色の矩形が私を迎え、海の底から海面に出るような感覚で、美術館の会場の空間へと戻った。

この入ったり出たりする感覚は始終倉重の作品に表れる。また現れては言語化を免れてどこかへ消えていってしまう。しかし、矩形が消えた瞬間の感覚は心のどこかに残り続けている。我々の生は、倉重の作品のように区切りがあったり無かったりするのだろう。会場を後にして美術館の外にある小さな丘に座った。そこは光に包まれていた。