オラファー・エリアソンが我々に投げかけるもの 

f:id:yu-okawa:20201012153156j:plain

オラファー・エリアソンの2014年に行われたルイジアナミュージアムでの展覧会「リバーベッドインミュージアム」の40分のインタビュー動画を見た。展覧会の内容は、大小様々なルイジアナの岩や石で作られたロックガーデンとも言えるランドスケープが美術館中埋め尽くされていて、観客がそこを歩いていくというもの。また所々に川を模したような水が流れていている。美術館に訪れた人は突如作られた風景の中を彷徨い歩く。オラファーの話はその展覧会への考えを語るものだった。オラファーは言う。誰が正しい観客なのかと。美術館には、子供も訪れる。高齢者も訪れる。若者も訪れる。誰が正しい年齢の観客なのかと。足元の悪い石だらけの会場は、歩きにくく、色彩も無い。バランスを取りながら前を進む。しかし、目的地らしいものはなく途方にくれる。誰かが「がっかりだ、私が期待していたものはこういうものではない」と言ったとする。オラファーはそうした声も大切だと考える。何がその人にとって大事で、何が大事では無いのか。隣で子供がはしゃいでいる。では知性が必要で美術に素養がある人が正しいのか。

オラファーは「信頼」という言葉を何回も語っていた。それは、美術館に訪れる人は何らかの期待を持って建物の中へと入ってくる。そこで落胆したり、感動したり、無関心であったりする。そうした人々の関心や無関心が社会のメタファーとして作品化されていく。それは共同体の問題であったり、民主主義の問題であったりする。誰が正しくて誰が正しくないのか。そうした社会的な感覚を、美術館に来た人たちが各々心に反射させて身体を通して考えていく。オラファーは言う。人々の反応を見ていくと、あるパターンで人が動き出すことがあるという。またパターンから外れる人もいると。それも一つの社会性を反映した現象であり、そうした様々な層が出来ていくことが作品となっていく。

また興味深いことも語っていた。自身が有名になるにつれて“オラファー・エリアソンの”展覧会を見に来る人が増えてしまうと。オラファーは人々の社会に対する批評自体が作品であるので、オラファー自身は関係ないのだと。かつての芸術家は有名になることに対して皮肉を交えることはあったが、美術館自体が作品となる現代では訪れる人々と美術館の関係こそが芸術なのである。こうした美術館の内側と美術館の外側の関係は、何が正しい芸術であるのか予め答えが決まっていてそれを美術館が説明しては駄目だとオラファーは言う。

先日東京都現代美術館でもオラファー・エリアソンの展覧会が行われた。オラファーは動画の中で日本庭園についても触れていが、日本庭園自体にそうした自然と人工を対比させた批評性はあるのだと改めて感じた。しかし、現代の日本社会は芸術にある批評性を享受していると言えるのだろうか。禅の庭や寺などもそうした批評性から生まれたものではないだろうか。我々日本社会から何故批評が消えてしまったのだろうか。批評に関心が無いのではなく、政治的に消されているのだと私は考えている。芸術から批評が消えたら只の装飾である。誰にとっても心地よいものになってしまう。それは表現でさえない。我々は生きていることで、何らかの痛みを抱え、悲しみ、また喜んでいる。そうした喜怒哀楽を社会で共有出来る状況が現在最も求められている。批評は大切なのである。