リチャード・セラ 彫刻とドローイング

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時節柄美術館への足が遠いと言う理由と、動画によるアーティストの肉声から得られるものに関心がある理由から巨大な鉄の彫刻家リチャード・セラのインタビュー動画を何本か見た。結論から先に言えば、やはり実際に作品を見るべきだということ。しかし、作家の言葉は重い。そして確実だ。何故なら本人だからだ。作品の当事者による言葉の重みは果てしない。先ずは2011年のチャーリー・ローズとの対談から。彫刻作品ではなくドローイング(スケッチのようなもの)の展覧会を行ったが、セラにとってドローイングとは何かという質問。セラはドローイングは自分にとってnotation(メモ的なもの)であり、実際のドローイングは鉛の模型を作ることだと答えていた。これは彫刻とドローイングの関係の本質的な問題であり歴史的にも重要な発言である。例えばある彫刻を構想したとする。その前段階としてのドローイング(スケッチ)があり、その後に芸術作品として実作品に結実するというもの。これは一般的な彫刻の制作のステップである。所謂習作をどう考えるのかという話。これは作家自身においても、作品を理解しようとする観客にとっても興味深い話である。どこから作品が始まりどこで終わるのかという話。

別の会話ではセラにとってドローイングとは目と手の筋肉を鍛えて、より良く考えるためのものだとも語っていた。またヴァン・ゴッホを例に取り、彼の絵画よりもしばしばドローイングの線の方が見るべきものがあるとも。他の動画を見ていると、セラにとって彫刻とは現実の中で実際の身体がどのように動き、空間が作られていくのかを作り出したり発見するものだとしている。巨大な壁のようなセラの彫刻は確かに量感のあるカタチというよりは空間そのものを志向している。観客は巨大な壁をぐるりと回って身体ごと体験する。幾重にもなる鉄の壁の作品は人間の内側と外側の関係を示唆しているのだろうか。また芸術作品におけるヴァーチャル概念に対しても言及があり、スクリーンの向こう側で起こるイリュージョンではなく、自分の作品は実際の重力や体の動きが伴う中での体験であると。更に別の動画では彫刻だけが建築と自然を両方体験できるのだと。こうしたセラの力強い言葉の数々は芸術家の秘密主義を否定し、芸術そのものに価値があることを示唆している。

セラの話をよく聞いていると、彼の代名詞としての巨大な鉄の壁の作品があるが、最初は鉄はあまり好きではなかったという。一般的な興味からすれば、素材と彫刻は一体と考えたいが、彫刻史から考えても素材と彫刻の関係は本質的な問題であり、素材=彫刻では無い。素材は彫刻の一部ではある。重力と共に存在する以上素材がブロンズであっても同じである。彫刻家のジャコメッティは別の角度からドローイングと彫刻の関係を探った。彼はその問題を絵画と彫刻に置き換えてしまったが。そこにもまたジャコメッティが発見した別の芸術問題が潜んでいる。セラはインタビューの中で芸術家はまだ見ぬ芸術の問題を発見していくことこそが芸術であると語っている。彼はそれに「How」と「What」という言葉をあてている。「Why」ではないのだと。要するに考えて制作するほか無いということなのだろうか。