ロバート・ブリアの動く芸術 -芸術の社会性について-

 

三年に一度行われた芸術祭、あいちトリエンナーレ(現在のあいち2022)は、展示を中止に追い込まれた「表現の不自由展」において日本の芸術の社会性の脆弱さを露呈した。天皇を扱った作品にせよ、従軍慰安婦をテーマにした作品にせよ。美術の展覧会に来訪する方に「どう思うか」という社会的な問いを発することが芸術であることを政治的に否定された歴史的な展覧会であった。今回取り上げる「あいち2022」で出品されたロバート・ブリアの「Floats」は1970年大阪万博で発表されたFRP製のオブジェが極遅いスピードで動くという作品(底に車輪の付いた、気が付かないくらい遅く動くモーターで動くもの)。動かないはずの彫刻が、気付かない内に移動していて、今回のあいち2022では美術館の監視員に来客者がブリア作品の動きについて質問しているらしい。

     

ロバート・ブリア(以下ブリア)はアメリカに生まれ、パリで画家として活動しながら実験的なアニメーションを制作する。理由は、絵画の中に動きを求める内の制作だったようである。実際のアニメーションは物語性が若干あるものの幾何学性が強く「動きそのもの」を表現したものが多かったようだ。彼のアニメーション制作の中で「Eye Wash」という作品がある。アニメーションのコラージュとも言える作風は、我々の生活の中で見えないが存在している断片の連続を表現しているようで、興味深かった。

歴史的に芸術の形式は、彫刻、絵画、映画、演劇など様々だ。形式特有の独自性もあれば、お互いの中にある連続性もある。彫刻と絵画、絵画と映画、彫刻と演劇など、芸術家はそうした形式としての芸術の中に個人のクロスオーバーな内面を矛盾しながらも表現している。しかし、ブリアのようにあからさまに絵画とアニメーションと彫刻を併置しながら活動をしているとある種の社会性を感じてしまう。今回取り上げるきっかけとなった「動く塊」とブリア自身が呼んだ「Floats」はそうした意味で興味深い。

ブリアが求めた芸術の中にある「動き」とは一体何を示しているのだろうか。ブリアが尊敬した芸術家にジャン・ティンゲリーがいる。キネティックアート(動く彫刻)と呼ばれた、ジャンク的なオブジェが不穏な動きをしながら愉快に動き続ける環境的彫刻。ティンゲリーは予定調和な動かない彫刻や絵画よりも環境的な動く彫刻や絵画を目指した。一つ一つの絵画や彫刻はそれ自体で存在しているが、ブリアが求めた芸術形式を越境するような作品を並べて見ていると、そもそも芸術自体が「あいだ」的な存在であることに改めて気づかされてしまう。

あいち2022では、ゆるキャラのような曖昧なオブジェ「floats」が気付かないくらいのスピードで少しずつ展示空間を行ったり来たりしている。これは静止していると思い込んでいる我々の生活空間が、実は僅かずつ動いているのと似ている。飛躍するようだが、我々は今日より良い明日を求めている。今日と明日が少しでも変わっているよう願って毎日生きている。それは別の言い方をすれば、何かが少しずつでも「動いている」現象でもある。ロバート・ブリアが求めた「芸術的な動き」とは、そうした「生きている」こと自体から生まれるある必然性なのかもしれない。動きに関して言えば、ブリアの父親は自動車メーカーのクライスラーのエンジニアであったらしい。そうしたブリアの生い立ちに起因する「芸術とエンジニアリング」を合成したようなブリアの動く造形はある種「社会の動くカタチ」を表しているのかもしれない。