高島芳幸展 日常にある甘美さ

 府中にあるギャラリーDODOで高島芳幸「用意されている絵画」展を見た。光が綺麗に入る建物へ入った瞬間に高島のドローイングに迎えられた。私はそのまま立ち止まってしまった。遠くから音楽が聞こえる。グールドのバッハだ。すぐに一緒に来た高島氏と日常にある「聞こえてくる音」の話になり、音における耳の受動性を話した。作品の周りにある光や音が作品があるにも関らず作品の要素として感じられるのは、高島の作品にある受動性と関係があるのだろう。すぐ脇に階段があり、2階へと上がっていった。ブラインド越しに光が入っていた。そこには高島のダンボールを展開したものを支持体とした絵画2点と何か油紙のような包装紙を支持体とした絵画1点で構成された空間があった。私は唸った。良いなと。先日書いた山田和夫の作品でも触れたが、どういう絵画かというよりは絵画と過ごしている「この時間」に意識が行くのである。「この時間」とは、私というゴロっとした身体が含まれる現実の時空間を指している。繰り返しになるが、どういう絵画かを気にするよりも他者としての絵画がそこにあるだけの時空間の甘美さがあるのだ。
 その内ダンボールを展開した作品の展示の仕方に目が行った。作品の下部が僅かに壁から離れている。その僅かに壁から離れているダンボールとしての現実性がイリュージョンとしての絵画に豊かさを与えている。それは筋の入った包装紙を広げた絵画に作り出されたいくつもの陰影が日常との間に作り出したイリュージョンにも展開されている。
 そこでもまたグールドの音が、包装紙にある規則的な筋と交じり合い絵画の中に音楽を作り出していた。私はもう少し居たかったが、時間が無かったので下の階へと降り会場を後にした。