松下誠子展「企てる庭」を見る。

 横浜の石川町にあるATELIER・Kで松下誠子展「企てる庭」を見た。以前見たパラフィンドレスのインスタレーションではファンタジックでありながらドレスが持つ内と外の関係が放つ実存性に焦点があった。今展では、クッションの形をしたオブジェが数点設置されていた。クッションはセメントなどの硬い材料で作られていて、クッションでありながら表面は皺が沢山あり、ちょうどクシャクシャの紙袋の表面に似ている。クッションの中は空洞になっていた。角材がその空洞の中を突き通っている作品もあった。壁には一点だけ同じ作品構造を持ちながらクッションではなく、石をイメージしたような形に角材が突き通っているオブジェが展示されていた。洗練されて良い作品だった。
 今展は以前のような空間を包摂した形での展示では無かったので、こちらに伝わってくるイメージが異なっていた。良い意味で現実の展示空間と松下のオブジェが接していた。私はその接点に感じる感覚と松下の作品の内部構造を行ったり来たりしていた。松下の作品には現実とファンタジーが織り交ざった構造がある。パラフィンドレスに見られる現実と非現実の交差や、象徴性を感じさせる鳥、またその先端であるクチバシや表面の羽根。私はまだ松下の作品の全体像はイメージ出来ないので、彼女の作品に見られる構造について触れたい。
 最初に私を捉えたのはそのクッションのオブジェが現実空間に置かれていたことだった。重複してしまうが、クッションのオブジェが現実空間に接していること自体に感覚が捉われていた。それは松下作品に繰り返し見られる表面や境界に対する感覚がそうさせている。先日見た若林奮展では彫刻の表面が空間と調和してはいけない、あるいはぼかすと語っていたことが思い出された。
 クッションのオブジェを見ている内に中の空洞が感じられて来て、その空洞が人間の内面を感じさせた。一方で柔らかいはずのクッションが陶器で出来たような硬い表面で覆われていることに気付く。そしてその表面は裏側を暗示するように皺がある。また、角材がクッションのオブジェを突き通っている作品では痛々しさよりも角材の直線や硬さとクッションの柔らかさの対比に目が行った。この、硬さと柔らかさ、内と外、現実と非現実の間の感覚が混ざるところに松下作品の実存感覚があるのだろう。