表面に宿る実存。「若林奮展」

 府中市美術館に若林奮展を見に行った。以前にもこのブログに若林奮展の記事を書いた。その時の印象と今度は違うのだろうかと考えながら美術館に向かった。若林奮のドローイングや彫刻に目をやりながら私は不思議な気持ちになっていた。私はその時無意識の中で「これが美術です」という作品概念を若林の作品を目の前にしながら探していた。それは美術史に則った上での批評性の有無のようなものだった。しかし目の前の若林奮の作品に対する営みは非常に個人的なものであり、ドローイングと彫刻に共通する詩的な表面が繰り出すファンタジックな世界に没頭するように視覚が作られていた。時折若林奮の言葉が会場に散りばめられていて、鉄が錆びているのは物質として安定しているから彫刻として光らせないといけない、とか、彫刻は量の概念であるから紙を重ねてみた、や、現実の空間と彫刻の表面の境界をはっきりさせなければいけない、またはぼかさなければいけない、など独自の彫刻への解釈があった。面白かったのは、自然に近づきたいと言いながら美術空間を成立させなければならないとする矛盾した若林奮の芸術観だった。
 私は若林奮の彫刻の表面性に戸惑いながらフラフラと会場のベンチに腰掛けた。以前見た時は若林奮の塊を感じない彫刻に魅力を感じていた。今回はその感覚が彫刻の表面性にあるのだということに気が付き、それが若林奮の作品の実存を支えていることが理解出来たように思えた。私はその若林奮の実存感覚を感じた疲れで一杯になっていた。