ベトナム戦争の印象とアート

 少し前になるが、森美術館でディンQレ展(2015.7.25-1012)を見に行った。ベトナム戦争ベトナム人がアートとして取り上げていることに同じアジア人として興味を持った。余談だが、同時期に機動戦士ガンダムというアニメの展覧会を同時に森美術館でしていたが、行列を作っていたのが印象的だった。私もガンダムは好きだが、美術館側の商業美術への人々の関心の向け方と現代アートの関係性のインフラが足りないことに不満を感じた。
 話を戻そう。私はこのベトナム人アーティストを知らなかったが、彼を知らなくても展覧会が成立することに現代性を感じた。彼はメディアアートを学校で学んでいる。もちろんそのメディアアートという概念自体が西洋的なのであるが、彼は上手にそれを消化し、自分の文化を見据えながら西洋美術史を俯瞰して作品を制作しているように見えた。
 私はディンQレの作品を良く知らないので展覧会の印象をまとめることしか出来ないが、それが可能であることがディンQレ展が指し示す方向であるといえるだろう。
 一般的にアートというものは、絵画であるとか、誰が描いたのかとか、テーマは何かというある視点から描かれた情報としての作品を共有していることが一般通念として存在している。近代美術として起源としてはダビンチなどに始まり、社会化された個人の表現として私が生きていることと社会の関係性を問うことが一般的だった。欧米文化に支えられた現代美術がヨーロッパからアメリカに移行した時点で何かが変化した。時代としては第二次世界大戦前後のことである。そんな中アメリカの現代美術は個人をアートの出発点にしながらも個人を社会化し、作家が持っている世界観を如何に現実社会に還元出来るかを問うことが専らの目標だった。それは一時的には個人の自我が肥大して超自我に到ることがアートになることも含まれていた。
 話は現代に飛ぶ。そういった現代美術の潮流の中で非西洋社会がそういった西洋美術をベースにした現代美術文化に対してどういった対応を取るのかが目下のアーティストの仕事になっていく。それは西洋人も同じである。そんな中ベトナム人アーティストのディンQレ展に出会った。作品のテーマもベトナム戦争という欧米社会としては植民地主義的な非人道性が戦争が第二次世界大戦で総括された後の戦争である。
 ここでは政治的なバックグラウンドは省く。なぜかは展覧会を観た感想がそうさせるのである。彼の代表的な作品として「農民とヘリコプター」という映像作品がある。横長のスクリーンが4つに分かれていて、ベトナム農民のインタビュー、ベトナムの活動家的な人のインタビュー、そして実際のヘリコプターを使った米軍の攻撃、それに対する戦時中の体験や、ヘリコプターが沼地を中心とした農業に貢献する夢や希望が並列的に時間軸を備えた映像が物語がベトナム戦争という命題を基に錯綜していく。また、波及した問題として、ある現代の日本人の若者がベトナム戦争に心情的にリンクしていってミリタリーゲームをしながらベトナム戦争への思いを語る映像などで構成される。
 興味深いのは、そういった美術作品がある一人の芸術家の思想に束ねられた世界観ではなく、戦争と言う相互的な環境の中で様々な人が歴史に翻弄されながら何らかの感情を持って生きていく様を、様々な視点から描いていく姿勢がアーティストの作家としてのあるいは作品としての強度を示していくのだなと感じたことだった。また作品を見る側としても従来の作品への態度ではない、自己の中に様々な視点を受け止める社会性こそが現代に求められる写実性なのかと考えさせられた。